雨よ降れ

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***  実家へ帰る――相応の覚悟で取り付けた約束を、私はあっけなく反故にした。  あろう事か、インフルエンザに感染してしまったのだ。  高齢の両親にうつす訳にはいかないし、そもそも出歩ける状態では無い。どうしようもなかったと思う。  その代わり、スマートフォンの通話アプリを使って、顔を見ながら会話をする事にした。両親には具合が良くなってからで良いのではないかと止められたが、私が強請ったのだ。  母と、過去と、どうしても今日、向き合あいたいという覚悟を無駄にしたくなかった。  何気なく窓の外を覗いてみれば、底抜けに明るい青空が私を見下ろしていた。  もちろん古傷は痛まない。もっとも、高熱による頭痛と関節痛が酷くて、それどころではないのだけれど。  せめてレースのカーテンを閉めようとベッドから身を起こしかけた時、枕元のスマートフォンが着信を告げた。  母だ。  祈る思いで通話ボタンに触れた。 <もしもし――> 「……もしもし」  スマートフォンの画面に、両親の姿が映る。  目に飛び込んで来たのは、母の変わり果てた姿だった。  かつて褒めそやされた美貌はすっかり也をひそめ、ぶくぶくと太り、真っ白になった髪を伸ばすがままにしている。不健康にむくんだ青白い顔は無表情で、こちらをぼうっと眺めていた。 どう贔屓目に見ても「加齢のため容姿が変わった」と言えない異様さに、私は絶句した。  母の隣に居る父も確かに老いてはいたが、その姿は「相応に年を重ねた」と言う表現が相応しい。実際はともかく、端から見て病的な様子は見られない。だからこそ、母の普通では無い様子がことさら目立つ。  虚ろな双眸が画面越しに、ゆらりと私を追いかけたかと思ったら、母は何も言わずに腰掛けていたソファにごろんと寝転んで、画面から消えてしまった。 「……母さん、具合悪いの?」 「今すぐどうにかなってしまうとう訳ではないんだけど、一日中寝たきりで過ごしているからすぐに疲れてしまうみたいで……。  調子が良い時はおしゃべりもできるんだけど……今日はちょっと難しかったみたいだね」  そう言うと父は、自分のせいで苦労をかけた事をあやまりたいとか、会えなかった間どんな事があったのかとか、何やら一生懸命話していたけれど、ちっとも頭に入ってきやしなかった。  母に、家を出た事を詰られると思っていた。また、化け物と対峙しなければならないのだ、と。  それ以前の問題だった。まさか、対話すら成立しないとは。 入念に磨いておいた反撃用の言葉の弾丸が宙に浮く。  浮遊しかけた私の意識を現実に繋ぎ止めたのは、母だった。 <雨が降ると、傷跡が痛むのよね> 「――母さん、怪我でもしたの?」  母は私の問いには答えず、 <悪いことばかりでもないけどね。痛がってる間は不思議と、頭のほうはしっかりするのよ>  と言いながらごそごそと寝返りをうち、再び黙り込んでしまった。  結局その日は父とも会話が弾まず、私の体調も芳しくなかった為、適当なタイミングで話を切り上げて、後日改めて実家へ帰る事になった。  父はもちろん、母も、私が実家の敷居を跨ぐ事を反対しなかった。    親との関係性を絶つという、かつての選択を後悔するつもりは無い。  自分の人生を進めるため、両親と離れる必要があったのは間違い無いと思うから。  それでも、自分の中の矜持が――母にこれ以上自分の人生を食い物にされてたまるか。私は一人で道を切り開くんだという想いだ――こどもには重すぎる荷物を背負わせた両親を、許せないという想いが。”老い”という津波によって私の意志とは関係なく、強制的に流されたような心持ちだった。  ”私”と言う人間を作り上げた構成要素をごっそりと虚空の彼方へ放り出され、後に残ったのは、“許し”でも、両親への愛でも、関係性を絶った事への後悔でも無かった。  ただただ、“老い”の残酷さが心を冷やし続けていた。  かつてはあっただろう母なりの正義や信念、喜びや悲しみ、やらねばならなかった事や本当にやりたかった事……。生きるための営み全てが、平坦な感情に飲み込まれ、忘却の彼方へ消失しかけている――そしてその事にすら気がつけない――そんな現状が、ただただ痛々しく思えた。  だからといって、今更仲良し家族を演じる気持ちにはなれないのだ。  両親を安心させるために己を偽る事もせず、かといって引導を渡す真似も出来ない。私は、平等に訪れる老いと死に当惑をしながらも、かつての恨み辛みが心の底に燻るのを、どうしようも出来ないでいた。 ***
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