雨よ降れ

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 雨が降る日は古傷が痛む。  髪に隠れて目立たないけれど私のこめかみにはぎざぎざした形の古傷がある。傷口はとっくにふさがっているはずなのに、どういう訳だか雨の日には鋭い痛みが走る。 日常生活に支障は無いけれど、無視出来る程に軽くもないその痛みは、鬱陶しいがまだやりすごせた。  やっかいなのは、痛みに呼応して記憶の底から引きずり出される、思い出の方である。  容赦なく降り注ぐ雨を窓越しに眺めた私は、暗澹たる気分を吐き捨てるように肺の中を空にしながら、レースのカーテンを閉め、パソコンに向き合った。  ディスプレイには一通のメールが映し出されている。差出人は伯母。文面はこうだ。 <お母さんの容体が刻々と悪くなっています。一度会っておいた方が良いんじゃないかと思い、ご連絡しました。  お母さんのためではなく、葵ちゃん自身が後悔しないために。  連絡をください。待っています>  文字から意味が乖離して網膜を滑ってゆく。  しばらく、メールに何が書かれているかわからなかった。勿論、それぞれの単語が示す意味はわかる。ただそれが、己に降りかかる出来事として処理出来ず、脳味噌が受け取り拒否をしているのだ。   そんな情けない私を現実に引き戻したのは、こめかみの痛みだった。  この傷は、母と大喧嘩して家を飛び出した日に、出来た。  その日も雨が降っていた。 「高校卒業後は家を出て就職しようと思う」  その日、私の決意を聞いた途端、母は逆上して近くにあった物を手当たり次第にひっつかみ、投げつけた。罵声とともに飛んできた、ティッシュペーパーやらテレビのリモコンからとっさに頭を庇う。  鬼のような形相をしている母が、私の未来を阻む化け物に見えた。 「出てくんなら今までアンタを育てるのにかかった金、全額返済してから出て行きな! この親不孝者!」  その言葉を聞いた途端、腸が煮えくり返って体が言うことをきかなくなった。  確かに、育てて貰った恩はあったと思う。  しかし私とて、健やかな子供時代を謳歌したわけではないのだ。  始まりは、父が事業の失敗をきっかけに鬱病を患ったことだった。屍のようになってしまった父の代わりに大黒柱にならざるを得なかった母は、決して労働に向いているとは言えない人だった。  蝶よ花よと育てられた過去を捨てきれず、仕事先で辛いことがあればすぐに退職してしまうのだ。加えて浪費癖もあり、「最後の贅沢だから」と生活費を使い込む事もあった。”母”に成りきれぬ人だった。  福祉に頼ろうと何度も説得したけれど、父の病状を「恥」と捉えた母は、家族以外の介入を拒み続けた。  私が父の身の回りの世話をしつつアルバイトをするようになると、給料の殆どは母に取り上げられ、生活と浪費に消えていった。  ――娘に依存して生きている奴が何を言うんだ――  無性に、しかと目を見据えて反論してやりたくなった。  頭を守っていた両手が、無意識のうちにだらりと下がる。すると、無防備になった頭部に衝撃が走った。  瓶の割れる音が狭い部屋に谺して、アルコールの匂いが充満する。足下に広がってゆく安酒に、こめかみから垂れた血液が一滴吸い込まれていった。それを目で追っているうちに、心の中に張り詰めてあった糸のようなものが、ぷつんと切れた。  この化け物の傍にいたら、私の人生は壊れてしまう――そう思った。  その夜、隠していた現金と必要最低限の物を持って、原付バイクで家を出た。  行き先に当てなどなかった。とにかく実家から遠い方へ遠い方へと、おんぼろバイクを走らせた。  その後は、住み込みで清掃の仕事をして経済基盤を整え、飲食業を中心にアルバイトを掛け持ちしながら、少しずつ預金残高を増やした。  容姿にも頭脳にも恵まれなかった私は、青春を謳歌する同級生を横目に馬車馬のように働いた。惨めさと、家族とのしがらみから解放された清々しさが交互にやってくる毎日だったが、搾取され続けるよりはずっと幸せだと思った。そう思っていないと、踏ん張れなかったのかも知れないが。  やがて仕事漬けの毎日が幸を成し、数年後にはなんとか一人暮らしが出来るまでになった。  保証人は、全ての事情を話していた伯母さんに頼んだ。 「思いなおした方が良い。もう一度、家族で話し合いをしてみてはどうか」  伯母さん一家からは事あるごとにそう言われたが、私は首を縦にふらなかった。  母からは「戻ってきて家族を支えるように」と、何度も連絡が来ていたが、 「私を当てにしないで、きちんと支援を受けて。足りない分は自分で働いてなんとかして。私は帰らない」  と言い続けるうちに、連絡は途絶えた。  そして気付けば、誰からも家族との復縁を仄めかされなくなった。  十八歳だった私が中年になっても状況は変わらず、両親との縁は切れたのだと思っていた。まさか、一通のメールがあっけなく、再び私達を結びつける事になろうとは。  鼓動が早鐘のように激しく脈打つ。視界が霞がかってきたので慌てて、はくはくと、金魚が酸素を求めるように天井を仰ぐ。こめかみの痛みは今や、最高潮に達していた。  ――私は何に対して、動揺しているのだろう?  父では無く、母の具合が悪いという事にか。  それとも縁を切ったはずの両親と、再び連絡を取り合わなければならないからか。  少なくとも、今、これ以上思考を深めた所で答えは出ないだろう。  空転する思考を無理矢理シャットダウンして、伯母に電話をかけた。  伯母さんが言うに、事情はこうだ。  私が家を出たあと、両親は公的補助を受けながらなんとか最低限の生活を営んでいたらしい。  娘が出て行ったのがショック療法となったのか、屍のように眠ってばかりだった父は、母を支えるために少しずつリハビリをはじめ、日常生活を健康的に過ごせるようになり、アルバイトができるようになり……ついには再就職に成功したのだと言う。  今では両親が力を合わせ、慎ましやかに生活しているというではないか。  私が自分の人生を捧げずとも、二人は何の問題も無く日常生活を営めたのだ。ならば、私のやってきた事は一体何だったのだろう。  もっと早く両親が生活を建て直してくれたなら、今頃私は――電話口で呪詛を撒き散らさぬよう、吐き出しそうになった言葉を奥歯でぎりりと噛み潰す。  伯母が私の胸中に気づいたかどうかはわからない。本題に入る前に、二呼吸ほどの沈黙が訪れはしたけれど。 「葵ちゃんのお母さんね、余命宣告されたとか、今すぐ来ないと危険だと言うわけではないの。  でも、検診結果は決して楽観視出来ない数字だったそうよ。規則正しい生活をして体調を整えられたら改善されるそうだけど……それが難しいみたい」 「難しい? どうしてですか?」 「――お母さんね、ここ数年で少し……認知症の兆候が出ているの」  寝耳に水だった。  伯母が言うには、父は頑なに「葵は家を出た身なのだから」と、母の病状について私に連絡するのを拒んでいたそうだ。見ていられなくなった伯母が両親には内緒で、私に連絡を取ってくれたという経緯らしい。 「そう、これはおばちゃんのお節介。葵ちゃんだけ何も知らないまま……というのは、残酷に思えたから」  私だけ何も知らないまま――母が死んでしまったら――。伯母があえて伏せた言葉が、わかった気がした。 「――ありがとうございます。よく――考えます」    通話を終え、なんだか急にその場に立っているのが辛くなって、ベッドの上に身を放り投げた。  浅くなった呼吸をゆっくりと整えながら、床に伏せった母の姿を想像する。  ――もし今、母と死に別れたら、私は後悔するのだろうか?  散々搾取されてなお、その問いに即答できない己に気づき愕然とする。  ――私は両親に会いたいのだろうか?  家を飛び出して十五年。このまま一生、両親と絶縁しても良いと思っていた。例えそれが今生の別れになろうとも。  しかし、普段はびくともしないその想いが、ただの強がりに成り下がる瞬間もあった。それは必ずしも両親が恋しいという気持ちで表されるのではなく、ある時には身を焦がす程の承認欲求に姿を変え、またある時には親しくなった相手へ抱く、見捨てられ不安となって私を苛んだ。 「私は誰に認められたかったのか」――その問いに対する答えは、喉に刺さった小骨の如く、手の届かない所でじくじくと痛みを主張し続けている。  そんな自分の弱さに自覚的だったからか、いざ、肉親を失うという仮定に現実味が帯びた瞬間、動揺した己を責める気にはなれなかった。  母の横暴を、父の逃避を、「仕方なかった」と水に流すつもりは無い。  しかし今この瞬間「このまま死に別れても良い」として、十年後はどうだろう?  二十年後、三十年後……そして私が死ぬその瞬間まで、「会えなくたって後悔しない」と、思い続けられるのだろうか。  十代の頃、涙と復讐心とともに誓った想いが初めて、揺らいだ。  ――葵ちゃんが後悔しない選択をして――  伯母さんの声が、私の背中をそっと押してくれた気がした。
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