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仕事を終え会社から出た時。かかってきた電話に出て通話を終えると、一緒にいた後輩の賢木亜由美が幸の持つスマホを見ていた。
興味津々な顔で彼女が、
「待ち受け、お花の写真ですか?」
と聞いてくる。
「え、えぇ」
「変わった色の紫陽花。可愛い!」
今にも覗き込んできそうな亜由美から隠すように幸はスマホを肩にかけていたバッグに戻した。
「まだ見たかったのに」
と言われて頬が熱くなる。
「賢木さんは花が好きなの?」
「ええ、高校は華道部でした。それに、今、ブーケをどんなふうにしようか考えているせいで、つい」
「そういえば賢木さん、結婚するのよね」
「はい。今は式場選びやドレス選びで毎週忙しくて」
「いいわね」
「主任だって。そのお花どなたかからのプレゼントでしょ」
「どうかな」
幸はとぼけたけれど頭の中では一人の顔を思い浮かべている。
その人は……涌井優……二ヶ月前に知り合った男。親友のユミカに誘われた夜桜見物で……。
ユミカの夫圭一は、幸の高校時代の元彼だった。
夜桜見物行った時、幸はまだ圭一に淡い未練を残していた。その気持ちを隠してユミカの誘いに渋々乗り……そこで出会ったのが涌井だった。
そしてその場で「十年間好きだった」と告白され……。唐突な告白に驚いた幸だったが涌井の押しの強さに負けて、今は月に二回ほど会うようになっている。
スマホの待ち受けにしている紫陽花は、涌井と前回会った時プレゼントされた。花を飾る習慣なんてなかった幸の部屋に涌井からもらった紫陽花が彩りを与えてくれている。
不思議な紫陽花だった。花色がはじめは紫色だったのに、日が経つにつれ黄緑から緑のグラデーションに変わっていく。紫色だった花が今はもう全部が淡い緑色なって元の色は残っていない。はじめからこの色でしたと言わんばかりに。その変化がなんとも愛おしくて、家で待っている紫陽花を思い浮かべて歩いていると、
「仕事命の先輩がそんな顔をするようになるなんて!」
と隣を歩く亜由美が驚いてみせた。
「まだ結婚とかそう言うんじゃないの」
と、つい言ってしまった。したり顔になった亜由美が、
「やっぱり男の人からだ。付き合ってるんですね」
と断言する。
「付き合っているというか……うーん……」
と濁すと、
「さては彼氏のいない時期が長すぎて、恋愛音痴ですね? 主任」
と亜由美が大袈裟なため息をついた。
亜由美は美人で親は会社社長、幸から見れば何不自由なく育ったお嬢様で(どうしてうちの会社で事務やってるの?)と不思議なくらいの子だ。高校卒業以降、恋愛から逃げていた幸よりは恋愛経験に長けているのは確かだろう。それでも後輩の発言に抗いたくなって、
「恋愛音痴って……私だって大人よ?」
と言った幸と、亜由美の、
「あ、でも、紫陽花の花言葉って……」
と言った言葉が重なった。
翌日の土曜日。
幸は、とあるホテルのブライダルフェア会場のテーブルの一つに、涌井と隣り合わせで座っていた。
視線を動かすと隣のテーブルの二人がピッタリと椅子と体をくっつけて座っているのが目に入ってビクッとしてしまう。まるで世界にはお互い二人しかいないような熱々ぶりだ。
(嘘……もしかして私たちもあのくらいしないといけないの?)
意識すると急に自分と涌井の椅子の間隔が気になってきた。くっつけすぎても離しすぎても不自然な気がする……。
あたふたしているのを隠したくて幸は、
「お店、大丈夫なんですか」
と涌井に聞いた。
涌井は花屋を経営している。確か土日も営業のはず。
そう思いながら周囲を見ると、今度は前のテーブルに座るカップルがテーブルの下で指を絡ませている。
反射的に隣の涌井が膝に置いた手を見てしまって、もうどうしたら正解なのか分からなくなってくる。
「今日はアルバイトの子がいるので大丈夫です。それにうちはそこまで繁盛していないので俺が休んでも問題ありません」
キッパリさっぱり爽やかに言い切られ、幸は片眉を上げた。
「それは、問題あるんじゃないですか」
「えっ」
と、涌井が戸惑った顔をする。
「繁盛してないって……、結婚したいなら相手に自分の経済能力をアピールするのは大事なことですよね」
「あのっ、誤解させたならすみません。個人的な意見ですけど、俺そんなに稼ぎが少ないわけじゃ……」
と、涌井が言いかけたところで、壇上に上がったスーツの女性がホテルウェディングについてマイクを手に話し始めた。
ブライダルフェアの会場であるこの部屋の壁も椅子やテーブルも白で統一され、テーブルクロスだけが鮮やかなブルーだ。ごまかしのない鮮やかな白と青が目に刺さって痛い。
急に、金曜の夜、後輩の亜由美に言われた言葉がふとよみがえる。
——紫陽花の花言葉って……。
プロジェクターで映像を流すために室内の照明が落とされる。暗くなる直前、隣のカップルがさっとキスをした。
ドキッとして反対を向くと涌井がちょうどこちらを向いていた。今度は(唇が近すぎ!)と更にドキッとしてしまう。
仕方ないので壇上の女性の説明を聞くフリをしたけれど頭に内容が入ってこない。
ため息が出る。そんな幸に、
「この後は、披露宴で出す料理の試食があるんです。楽しみですね」
と涌井が耳打ちしてくる。
幸は顔を引き攣らせて、
「わぁ、たっぷり食べないと」
と棒読みで答えた。
「緊張してます?」
涌井は笑っているようだった。幸はムッとした。
「私たち出会ってまだ二ヶ月です。結婚を考えるには早すぎるかと」
「十年待っていた俺にとっては、二ヶ月は充分すぎます」
「キスだってまだなのに?」
幸が思わず涌井の方を見て言うと、彼は薄暗がりの中でも分かるくらいにっこりとした。
「大事にしたくて。でも期待してくれているならすぐにでも」
「期待していません!」
無性にカリカリしてしまう。そんな幸の耳に亜由美の言った言葉がまた再生された。
——紫陽花の花言葉って確か……「浮気」でしたよね?
説明の後は模擬結婚式の見学だった。
チャペルの椅子に並んで座ると前の列のカップルの会話が耳に入ってきた。
「今日の模擬結婚式、私たちの中のひと組が特別にやらせてもらえるみたいよ」
「モデルじゃないんだ?」
「ドレスを着られるなんて羨ましい」
「いいじゃないか、ドレスの試着会もあるんだし」
そんなおしゃべりを聞いていると、チャペルの入り口の扉が大きく開いた。厳かな音楽が流れ新郎新婦役の二人が入場する。純白のドレスとタキシードの二人に視線が集まった。あちらこちらから「すてき」「いいなぁ」と言うため息に似た声が聞こえてくる。
あれこれ考えていた幸も入ってきた二人に、
「……綺麗」
とつぶやいていた。
涌井が苦笑した。
「あの二人、まさに美男美女ですね……いや、美女美男というべきかな」
つい幸もうなずいてしまう。花嫁の方が花婿の手を握りしめているからだ。
その花嫁の顔を見て、幸は思わず口に手を当てた。
「あらやだ、賢木さん」
「知っている人?」
「ええ、会社の後輩。でも」
と、幸は首を傾げた。
普段はあんな強気な感じの子じゃないのに……。
翌週の木曜日、幸は仕事帰りに涌井の店に立ち寄った。
涌井のことをもっと知りたくて。
もうすぐ閉店時間。涌井は花を店内にしまっていた。
「この間のブライダルフェア、どうでしたか」
と涌井が聞いてくる。
「やっぱり早すぎる? でも俺たちもうすぐ三十だし」
「涌井さんて、三十歳までに結婚したい人なんですか」
「そりゃ意識します。子作りのタイムリミットがあるでしょ」
とあけすけに言われて幸は、
「……こっ」
と、目を白黒させた。
その時、ひと組の男女が入店してきた。
女性の方が幸を見て、
「丸石主任!」
と目を丸くする。
「賢木さん?」
「私たち、ウェディングブーケをお願いしたくて……」
「それはおめでとうございます。奥でお話をうかがわせてください」
仕事の顔になった涌井が二人を店の奥にあるデーブルセットにうながした。
(仕事、終わりそうにないな……)と、幸は心の中でため息をついた。
この後涌井を食事に誘うつもりだったが、無理なら仕方ない。
「あの、私もう帰ります」
話をしている三人に幸が声をかけると、
「そんな、主任帰らないでください」
と亜由美が顔を上げた。
「でも……」
「彼女もこう言っていますし、ぜひ同席してください」
と男性の方も言ってくる。
(本当にいいの?)迷った幸が涌井を見ると彼もうなずいたので、
「……じゃあ」
と恐縮しながら幸は涌井の隣に座った。
「日下俊雄といいます。よろしくお願いします」
と亜由美の隣に座る男性が頭を下げた。
「俊くんって呼んでるんです」
すかさず亜由美が俊雄の腕に自分の腕を絡めた。
「引き留めちゃってごめんなさい。でも主任がいてくれた方が安心で」
と言われて幸は思わず俊雄を見た。
(私なんかより旦那さまになる人を頼りにするものじゃない?)
しかし言われた方の俊雄は黙っている。
ブライダルフェアでも亜由美に引っ張られている感じだったし、おとなしい性格なのだろう。
「ブーケのお花は、必ずチョコレートコスモスを入れて欲しいんです」
と亜由美が言った。
幸は初めて聞く花の名前に、
「チョコレートコスモスって?」
とつい会話に割って入ってしまう。
涌井が「これです」とひろげていた雑誌の一ページを指し示した。
そこには赤とも黒とも言えそうな色の花が写っている。
「なんだか黒っぽくありません?」
と俊雄が言うと、
「私が気に入ったんだからいいじゃない! 俊くんは黙って私の言う通りにしてればいいの」
と亜由美が強い口調で言い返した。
その剣幕に、
「そ、そうだね……」
と俊雄はすぐ引き下がる。
どうも亜由美の家庭は亭主関白ならぬ女房関白になりそうだ……。
そんな二人を観察していると、再びチリンとドアチャイムが鳴った。
「こんばんは」
と声がして、涌井は客を出迎えるために席を立つ。
するとなぜか亜由美も席を立って店の方へ行ってしまった。気になって幸も立つと俊雄も一緒についてくる。
「次の日曜日ですね、伺います」
と涌井が言うのが聞こえた。
ゾロゾロと幸たち三人が店内に出ると、客で来ていた女性が「あ」と声を上げた。接客していた涌井がつられて振り返る。
幸は、涌井と女性の距離が近い気がして心臓が痛くなった。
「お邪魔してすみません」
と、幸が言うと、涌井がふっと表情を緩めた。
「いえ、これはボランティアの話なんです……そうだ、幸さんも一緒にどうですか」
と、涌井が言うと、なぜか亜由美がサッと片手を上げた。
「私、興味あります。俊くんも休みでしょ、一緒に行くわよね」
何をするのかも聞かずに、行くと決まったような口ぶりで亜由美が言う。
さすがに表情をこわばらせた俊雄が、
「え……」
と目を見開いた。けれど亜由美はまるで気にしない。涌井と斉藤先生と呼ばれた女性に向かって、
「だって子供ができたら幼稚園に入れると思いますもん。ね、お願いします」
と言ったのだった……。
店を閉めてようやく二人きりになった幸と涌井は近くの居酒屋で遅い夕飯をとった。
「なんだか新婦が一人で決めている感じでしたね」
と幸が言ったのは、亜由美のウェディングブーケの話だ。
「ブーケを持つのは花嫁ですから」
涌井が唐揚げにレモンを絞りながら言う。涌井におしぼりを渡した幸が、
「チョコレートコスモスって初めて知りました。可愛いけど、結婚式なら白とかピンクの花の方がいいな」
と言うと涌井はニコッと唐揚げを口に放り込む。
「ブライダルフェアの時もそうでしたけど、奥さん、気が強そうでしたね」
「うーん。彼女、普段はあんなじゃないんですけど」
「旦那さんが大人しそうなひとでしたから自然とそうなるのかもしれないですね。でもあんなふうにやりこめられたら俺は自信を無くすかも」
と涌井が肩をすくめるので、幸は、
「私だって会社では男の人をやりこめることありますよ」
と一応予防線のつもりで言った。付き合いが深まってから(なんだ、この気の強い女は)と思われたら困る……。
「それは仕事だからでしょう?」
と涌井が顔を覗き込んでくるので、
「どうでしょう?」
とはぐらかした。すると、
「俺には優しくしてください」
と涌井が頭を下げるので、予防線なんて考えた自分が恥ずかしくなって幸は赤面した。
そして日曜の朝。
ボランティアに参加する面々が涌井の店に集まった。
目的地の斉藤が勤める幼稚園は、涌井の店からそう遠くないということで歩いて行くことになったのだ。
涌井の隣を歩きながら幸は、
「やっぱり心配かも」
と言った。
「何がです?」
幸の言葉をすかさず涌井が拾い上げる。
「先週も休みましたし、今週も……。こんなに土日休んでお花屋さん大丈夫です?」
という幸の質問に答えたのは、亜由美の結婚相手の俊雄だった。
「大丈夫ですよ。涌井さんって結構有名なフラワーアーティストって聞きましたよ。雑誌やテレビのお花もやられていますよね?」
「え、そうなんですか」
自分の知らない涌井を他人が当たり前のように知っていることに幸は驚いた。素直に驚いていると、
「俊くん、よく知ってたね。私そんな話してないけど」
と、亜由美が言い、「そのくらい……知ってるさ」と俊雄が歯切れ悪く答えた。
しばらく無言で行くと、幼稚園の建物が見えてきた。入り口で待っていた斉藤先生が近づいてきた。
「今日はよろしくお願いします」
明るい日の光の下だと、斉藤先生の目尻の小皺や下がり気味の口元がよく見えた。細かいところについ目がいく、女の嫌なところだ(先生は結婚しているのかしら)。
何もかも、店内で話していた涌井と斉藤の距離が近く見えたせい……。
「涌井さん、月に一回、幼稚園にお花を生けに来てくれるんです。子供にも親御さんにも好評なんですよ」
「うちの方こそ、こちらでお花を飾らせてもらうようになってから、ピアノの発表会や歓送迎のお花など注文をいただいているので……かなりの宣伝効果になっています」
と、涌井と斉藤が笑いあう。
幸は自分の胸に手を当てた。……やっぱり少し痛い。
園庭に行くと、広げたブルーシートの上にペンキを塗った木の板が並べられていた。近くに白木の板が積まれている。斉藤はそれを指差して、
「これはうちの園の子たちが塗ってくれた分なんです。まだ足りないので、残りにペンキを塗って柵を完成していただけますか」
と涌井に言った。
そして幸と亜由美、俊雄に向かい、
「みなさんも来ていただいて……ありがとうございます。お子さんが生まれたら是非うちに入園してくださいね。気の早い話ですけど」
と、頭を下げる。
斉藤の笑顔がぎこちないのを、幸は(そうよね、涌井さんにだけ来てもらうつもりがこんなにゾロゾロきちゃったんだもの)と考えてまた落ち込んだ。
板に色を塗る作業は途中から幸と亜由美の二人になった。
男二人が腰を痛めた園長に照明の付け替えを手伝って欲しいと頼まれたのだ。斉藤も他に仕事があると行ってしまった。
ペンキの匂いを嗅ぎながら手を動かしていると、亜由美が、
「子供たちの塗った柵、いろんな絵があって可愛いですね」
と言ってきた。
「花とか車とか、んん? これ何を描いたのかな」
幸がそう返すと、
「私達も何か描いちゃいますか?」
と亜由美がイタズラっぽく言ってくる。
「絵は上手くないから……」
「そんなこと気にせずみんな描いてますよ」
「うーん……」
と渋りながらも少し心が動いた。
(これだけ沢山の子供の絵に紛れてしまえば、私の書いたことなんて誰も気づかない)
亜由美はペンキ塗りに集中している。幸はドキドキしながら細い筆を手に取った……。
花壇や園の入り口の植え込みに出来上がった柵を突き立て、その日のボランティアは終了となった。
「綺麗にできてよかったですね」
と言いながら歩く帰り道、不意に隣を歩く亜由美が幸にだけ聞こえるボリュームで、
「明日雨だといいですね」
と言った。
実は幸もそう考えていたところだったので驚いた幸は(聞き間違い?)と、亜由美を見た。
するとまた、
「ペンキ、流れないかな……」
と、亜由美が言う。
(もしかして、見られた?)
幸は亜由美を窺うが彼女は前を歩く俊雄を見ていた。
その表情からは彼女が何を考えているかさっぱり分からない。
九月も半ば過ぎ。
同僚と、呼ばれなかった結婚式の話をした時、亜由美が新郎に逃げられたことを聞いた。
「挙式当日だったそうよ。そんな目にあったらショックで出勤なんてできない」
「仕事だから、仕方ないでしょ」
その日の昼休み、冷たいものが食べたくて寄ったコンビニで、幸はばったり亜由美に会った。
話をしませんか、と誘われて近くの公園に行く。
ベンチに座ると亜由美は、
「丸石さんは涌井さんと結婚するんですか」
と聞いてきた。
「まだ、わからないかな」
「涌井さんに押し切られている気がする?」
(私のことを聞く場合じゃないでしょうに)
と思うけれど結局、
「ええ」
としか言えなかった。買ったアイスは少し溶けていた。
「涌井さん、押せ押せですもんね」
と、亜由美がアイスコーヒー片手にため息をつく。
「私も、押せ押せで行けばなんとかなるって思ってました。うちの父は社長だし、彼の実家はうちの下請けだから絶対断らない。あの、聞きました? 私、俊くんに逃げられたんです」
「えぇ……」
「彼の相手が誰かって聞かないんですね」
「……聞かないでしょ。普通」
「斉藤先生なんです」
「先生……って、幼稚園の?」
「結局結婚式をすっぽかされて、俊くんの家は知らないうちに自主廃業していて。もうウチの父の権力なんて関係なくて。いい恥晒しだって私の方が怒られる始末です。あーあ、損しちゃった」
亜由美が軽い口調で言う。
「前に幼稚園にペンキ塗りのボランティア、一緒に行ったじゃないですか」
「えっ、ええ……」
「私あの時、相合傘を書いたんです。私と俊くんの……。馬鹿みたい。今どき小学生でもそんなことしないですよね」
「そんなことない。私も描いたの、相合傘」
「ふふっ、実は気づいてました」
と言われて幸は苦笑する。
「帰りに私が、雨が降ったらいいのにって言ったこと覚えてますか」
「ええ」
「馬鹿だなって後悔したんです。子供っぽいおまじないに頼ったこと。しかも彼女の職場で」
と、亜由美が苦く笑う。
「馬鹿なのは、私もだよ」
と幸が言うと、亜由美の笑い声が止まった。彼女の目に涙が滲んでいた。
「雨が降って洗い流してくれたらって思いました。でも降らなくて……私が描いた相合傘はまだ残ってる。でも今は残ってよかったって思うんです」
「どうして?」
「それくらいしか私があの人を好きだった証拠、残ってないから」
その日の夜、涌井の家で亜由美のことを彼に話した。
すると、
「あぁ、やっぱり」
と言った涌井に、幸は驚いた。
「知っていたんですか」
「知りませんでした」
「じゃあ、なんで」
「彼女、ブーケにチョコレートコスモスを入れてくれって言ったじゃないですか」
「えぇ」
「チョコレートコスモスの花言葉は「恋の終わり」です」
胸を突かれて幸は涌井を見た。
「覚悟していたのかな、と。ウェディングブーケですよ? そんな花言葉を持つ花をわざわざ選びますか?」
「賢木さん、こうなるってわかってた?」
「花好きなら、考えるかな、と」
そう言ってしれっとお茶を飲む涌井に、急に腹が立ってくる。
「実は私、許せなくて……、紫陽花のことなんですけど」
と言うと、涌井が目を丸くする。
「俺がプレゼントした?」
「紫陽花の花言葉って「浮気」だそうですね。わざわざ花言葉で浮気を宣言するのはどうなんですか」
「い、言いがかりです」
言いがかりなことくらい、幸だって分かっている。斉藤は俊夫と駆け落ちしたのだ。ただ、紫陽花の花言葉でモヤモヤさせられた仕返しをしたかっただけ。
「片想いだった十年間の半分は留学して修行に明け暮れました。残り半分は店を軌道に乗せるのに忙しくて他の女性に心を動かす余裕なんて!」
涌井の慌てっぷりに幸は吹き出す。そして彼にキスをした。
雨で消えなかった相合傘を思い浮かべながら。
〈了〉
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