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黄色いクマのサンダース
サンダース、と呼びかけると、赤い服を着た黄色いクマは、窓際の椅子に座ったまま、クマらしからぬ眉毛をぴくりと動かした。ぼくが7歳の時に東京の叔母が夢の国で買ってきてプレゼントしてくれた黄色いクマ。そのトボけた顔に、ぼくは魅了された。
そのクマが元々は本の中の住人だと知ったのはそれから間もないことで、小学校の図書室で偶然にその本を見つけたぼくは、クマの本当の名が「サンダース」だったんだと誤読した。ぼくの友達はもちろん全員そのクマのことを知っていたけれど、みんな当然のように人口に膾炙している方の名で呼んでいて、その名が漏れ聞こえてくるたびに、ぼくは、小さな優越感をふるわせた。
ぼくは本当の名を知っているんだぞ。
そんな気持ちがなぜ優越感になり得るのか、当時のぼくは考えもしなかったけれど、今では、そのことがどんなはちみつよりも甘いものであるか知っている。
そんなわけで、ぼくの家にいる黄色いクマの名前は、その時から「サンダース」なのだ。
「ああ、これね。懐かしい!」
眉毛をぴくりと動かしたクマは、急にひょいと抱き上げられて、普通のぬいぐるみの顔に戻ってしまった。
「叔母さんが探してたのは、これですよね」
「そうそう。限定品だったから今はどこにも売ってなくって、困ってたの」
話はこうだ。
還暦を目前にした叔母さんは、生まれて初めて結婚を申し込まれた。それで、ぼくが知っている親戚の中でいちばんプリンセス願望の強い叔母さん(だからもちろん夢の国が大好きなのだ)は、ぼくの母が思わず愚痴めいたことをこぼすほどに浮かれている。
つまり、この前うちにも挨拶に来た結婚相手の彼がサンダースを見た時、自分が今までずっと探していた限定品のクマだったことに驚いて叔母に話し、叔母は恋する目で同じものを彼のために探したけれども、どうしても見つからずにぼくに相談しに来た、ということだ。
今日、うちに来た叔母の目を見て、すぐにわかった。「こんなに大きくなった男の子は、もうこのクマには何の未練もないでしょう」と書いてあったからだ。それは、3歳のぼくにサンダースをプレゼントしたときの、「こんなに小さい男の子なら、きっとこのクマをもらって喜ぶでしょう」という目と、ほとんど変わりがなかった。
だから、ぼくは叔母が一言二言ほのめかすよりも先に、彼女をサンダースのところへ連れて行った。
今、サンダースは叔母にがっちりと抱かれている。
「ぼくも、ぬいぐるみで遊ぶような歳じゃないし、喜んでもらえる人のところへ行った方がいいと思います」
叔母は、ぼくの言葉が終わるよりも先に「そうよね!」とうなずくと、千疋屋のフルーツゼリー詰め合わせをぐいっと押し付けてから、強い風に吹き飛ばれるように玄関を出て行った。
夢の国つながりで結婚することになった彼らは、きっとこれからもずっと幸せに暮らすんだろう。ぼくがずっと欲しかったトボけた顔を生まれながらに持っている彼らは、子供の顔を持たずに子供の時を終えてしまったぼくの気持ちを知ることはない。
「さあ、プー」
ぼくに抱き上げられ、窓際の椅子の上に座らされたこのクマの名前はサンダースじゃない。ぼくは、割とすぐそのことに気づいた。サンダースというのは、プーが住んでいる家にたまたま掲げられている表札に過ぎない。
「うまく隠れていたね。やっぱりいつも椅子の方がいいだろう」
叔母の恋する目よりも、子供の顔に恵まれなかったぼくの執念の方が強かった。要するにそういうことだ。
何もしないことのすばらしさを知っていて、それに別れを告げたクリストファー・ロビンよりも、元々そのすばらしさを知らなかったぼくの方が、ずっとずっと彼のことを必要としているのだ。本当の名がどうだとか、自分だけが知っているんだとか、それがどんなに甘い幻想だろうと、今ではどうでもいい。
ぼくに強い夢をプレゼントしてくれた叔母さんが、幸せになるといい。叔母に抱かれていったサンダースは、結婚式でリングピローを抱く大役を仰せつかっているそうだ。
「サンダース」
黄色いクマは、また眉毛をぴくりと動かす。
「プー」
それから、口角を上げてぼくを見る。
何だっていい。何者だっていい。
「これからも、よろしくね」
その強い夢は、いつもそこにある。
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