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 僕はそれ以降、ますます彼の事が気になりだしてしまった。  些細な会話だったかもしれないけれど、一度体験してしまうともう後には戻れなくなる。  もっと話してみたい。  色々と聞いてみたい、彼の事。  下の名前も、年齢も、住んでる場所も。  いつかそんな日がくればいいな……とぼんやりと願ってはいたが、その願いが叶う日は意外にも早かった。  それは森下くんと会話をしてから六日後の事。  毎月第四水曜日に行われる店長会に出席するために、従業員用会議室に訪れた時だった。  このショッピングモール内に入る全ての店長が集まる会議だ。  その受付をする為に並んでいたら、前方に綺麗な茶髪のあの彼を見つけたのだ。  (えっ、どうして森下くんがここに?)  僕があの横顔を見間違える訳が無い。  彼は壁に貼られた紙に指を滑らせた後、ニッと歯を出して笑い、ペンでマルを書いていた。  僕の前に並んでいた三人も同じようにマルを書く。  順番が回ってきた僕も、sateenkaariの名前を探しながら、森下くんのお店の名前もこっそり探した。  自分の店が見つかったので、マルを付ける。  随分と下の方に彼の店の名を見つけた。  まるでコンパスでも使ったんじゃないかっていうくらいに綺麗な円が書かれていた。森下くんが書いたのは間違いない。  ……彼はもしかして、副店長なのだろうか。  店長が欠席の場合、二番手がこの店長会に出席しなければいけない決まりになっている。  てっきりアルバイトの子かと思っていた。  あんなに若いのに副店長だなんてしっかりしているんだな、と感心しながら会議室に入る。  ホワイトボードやプロジェクターが置いてあり、パイプ椅子が三つ並んだ長テーブルが、前から等間隔にズラっと並べられている。  皆がだいたい、真ん中を空かせて端と端に座っていた。  キョロキョロと森下くんの姿を探すと、壁側の隅に一人で座っていて、一つ空かした端の席は空いていた。  僕の足は勝手にそちらへ向かう。  けれど僕の前に並んでいた男性が、森下くんと同じテーブル席に座ろうと椅子を引いてしまったので、少々残念に思いながら溜息を吐いた。  ならば彼の真後ろに座ってみようか……とも思ったのだが、こうして悩んでいるうちに真後ろの席も呆気なく座られてしまった。  もう諦めて離れた席に座ろうとしたその時。 「あっ! お疲れ様です」  ふと声のした方に視線を向けると、森下くんはこちらに向かって片手を上げていた。  あれ、僕? 僕でいいんだよな、目が合っているし。  軽くお辞儀をすると、森下くんと同じテーブル席に座っていた男性が荷物を持って徐に立ち上がり、僕に向かって言った。 「そこ、良かったら座って下さい」 「あ、いえ、悪いですよ」 「気にしないで」  その人は軽く微笑んで、もっと後ろの席にずれてくれた。  今の人は、確か三階の某有名デニムショップの店長だ。  ありがとうデニム店長。今度そこのお店に買いに行くからね。心の中でお礼を言って、僕は森下くんに近づいた。  森下くんは僕のために椅子を引いてくれたけど……何故か、一つ空かさずにすぐ隣の椅子を引いていた。  僕がそこに座っては、距離が近くなってしまうではないか。  照れてなかなか座れない僕を見て、森下くんは「あれ?」とこの前のように首を傾げた。 「もしかして、一つ空かせて座らなくちゃいけない決まりなんですか?」 「いや、そんな決まりはないですが」  けれど、かなり近くなるよ、いいのかい?  皆だいたい一つ空けて座っているけど、あまり気にしないのかい?  まぁ僕は、嬉しいけどね。  バッグを隅の椅子に置いて、腰を落とした。  ……やっぱり近い。  テーブルの上に置かれた森下くんの腕の肘が、僕の片腕に触れた。  パーソナルスペースが思い切り近い。  森下くんに不快に思われないか、心配だ。  今横を向いたら思いっきり目が合ってしまうと感じた僕は、もらった資料に視線を落としながら何から話そうかと期待と羞恥を入り交じらせていた。  森下くんはこんな僕に気を遣ったのか、それとも元から人懐こい性格なのか、明るい調子で話し掛けてきた。 「sateenkaariの店長さんだったんですねー」 「あぁはい。君は二番手なんですか?」 「はい、こんなんですけど、一応」  森下くんはほっぺをポリポリとかく仕草をしていた。  遠くから見ていた時も思っていたけど、肌がとても綺麗だ。陶器のようにツルッとしていて白く、髪の毛は明るい茶色だけれど傷んでいる様子もない。そして何より、僕の大好きな手、指。  その繊細な指で料理をして皿を運んでいるのだなぁと、しみじみとする。  ふと、彼の資料に名前が手書きで書いてあるのを見つけた。  森下、拓真。  たくま、か。いい名前だ。 「森下くん……って、言うんですね?」  口に出すと、なんだか小っ恥ずかしい。  それに今知った風に装っている自分は、もっと恥ずかしい。  森下くんは、資料プリントに自分で書いたであろう名前を見ながら笑った。
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