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4. 迂回
最終日の昼間、和雄と春子はかかりつけの病院を訪れていた。
整形外科の主治医は、和雄のレントゲンやMRIの結果を見て告げた。
「左右ともに、変形性膝関節症ですね」
「はぁ」
もう80歳近いですから、と主治医はあっさりと言った。
「痛み止めの内服薬を処方しましょう。進行すると痛みが増すだけでなく、日常生活にも影響が出る可能性があります。外来リハビリを利用するのも一つの手ですし、改善が見られないようなら手術治療も検討しましょう」
「先生、うちの人は自営業なんです」
春子がつい口を挟んだ。
「リハビリなんて頻繁に通えないので……手術なら、早く良くなりますか」
「それは個人差が――」
「おい、余計なこと聞くでね」
和雄が皺だらけの手で制した。
「店をたたんだら落ち着くべ。そしたらリハビリでも何でもできるべさ」
「んだけど――」
和雄は主治医に「どうも」と一礼すると、さっさと診察室を出てしまった。
帰りのタクシーに乗ってからも、和雄は何も話そうとしなかった。
「お客さん、どちらまで」
「城東隣の、まんまや食堂まで」
「かしこまりました」
車内の前後を遮るビニールの匂いが、鼻に触れた。
一瞬の静かな時間を過ごしてから、春子は運転手に声を掛けた。
「あの、県営球場の通りは避けてもらってもいいすべか」
「ん? なしてだすか。近道だすべ」
「ちょっと、いろいろあって」
「……んだすか。せば、別ルートにするすべ」
察しのいい運転手は深堀りせず、無線を入れるとすぐに発進した。
ラジオから流れる陽気な音声が、車内で一人にぎやかに響いていた。
あの日もタクシーの中で黙っていた。
和雄も春子もまだ、「あの場所」には行けなかった。
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