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 冬の早暁、十五秒の揺れ。  灰燼と瓦礫に没した神戸の下町で、蒼海だけが以前と変わらぬ寧静に煙っていた。  大学の事務局で手続きを済ませ、見納めにキャンパスをそぞろ歩く。同じ学部の先輩の口から、彼女の訃報を知らされる。  いつもの癖で、駅前へ足が向いた。ロータリーの一隅に寄せられた瓦礫を迂回して、商店街の入口に立つ。ここは食料品、衣類や雑貨を扱う小型店舗が軒を連ねる、賑やかなアーケイドだった。去年までは。  焼け焦げた木材が、鼻孔に匂う。半壊、全壊、もしくは焼失。様変わりした店舗群から視線を引き剥がして、商店街の終端へ。黒く堆積する残骸の前で、足を止めた。  辺りを見回して、記憶と照合する。間違いない。ここには、いかにも下町然とした店構えの不動産屋があった。奥のカウンターと思しき付近に、人の良さそうな店主の微笑を幻視する。「最近、いよいよ老眼が酷くてなぁ……」と空き部屋の資料を顔に近付けたり遠ざけたりしながら店主が選んでくれたのは、風呂トイレ炊事場共用、戦後の焼け野原に雨後の筍の如く生え出た、築年数不明の木造住宅。  (きし)り、崩折れていく柱達。  折り重なった書棚の下から埃と打撲にまみれながら這い出すと、二階だったはずの自室はなぜか玄関前の道路と地続きになっていた。隣家から破砕音。半壊状態の長屋住宅の窓を、炎が赤黒く舐め上げようとしている。  認識の追い付かない光景に立ち尽くす間も与えられないまま、ただ避難するしかなかった。階下に暮らしていた親切な大家夫妻の安否はいまも知れない。土地勘のない街、断続的かつ執拗な余震。避難所で真冬の冷え込みに震えながら、僕は学業を断念した。  目の前の「かつて不動産屋だった残骸」に焦点を結ぶ。店舗兼住居だったのだろう。燃え残った金属製の事務机やキャビネットの足下に、原型を留めない家財が黒く重なっている。手を合わせるべきだろうか。しかし、あの店主も運良く避難できたかも知れない。慮外の再会を期して踵を返す。そうやって、一人でも多くを記憶に留めておきたいと思った。  さて。どこに行って、何をすべきなのか、いよいよ分からない。  ぜんぶ無くして、時間だけがある……  ふと、海に誘われた。
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