私は、助けてくれたあの人の名前も、何も知らない。

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私は、助けてくれたあの人の名前も、何も知らない。

 数年前の夏。  学校からの帰り道、いつもの駅。  絵里は喉の渇きに耐えかね、ホームで水を飲んだ。  いつも持ち歩いているマグボトルはすでに空っぽで、電車に乗っている間ずっと喉の渇きを我慢していたのだ。  上向きの蛇口を捻った時に勢いがあった為に、絵里は慌てて水量を調節する。  少しだけ冷たさのある水で喉を潤し、やっとひとごこちついた絵里が口元と制服に付いた水滴をミニタオルで拭いた、その時。  離れた場所にいた作業服を着た男が寄ってきて絵里を怒鳴りつけた。驚きのあまりに小さな悲鳴を上げる絵里。 ●  赤ら顔をしたその男は、回らない口で文句を言い始めた。  水が飛び散って床が濡れるじゃねえか!  他人の迷惑を考えろってんだ!  まったく、最近のガキはどいつもこいつも!  酒臭い息を吐きながら怒鳴り続ける男。  絵里は、『最初に水を出した時に床を濡らしたのかも……』と頭を下げ、手に持ったミニタオルで丁寧に水道の周りの床を拭いた。だが、床を懸命に拭き上げて立ち上がった後も、男の文句は止まらなかった。  てめえ、馬鹿にしてんのか?  そういう事じゃねんだよ!  ガキだって容赦しねえぞ?  いいか、俺はな。 (どうしよう、どうしよう!怖い……!)  絵里は縋るように、周りをキョロキョロと見た。駅員さんやお巡りさんはいないだろうか。誰か助けてくれないだろうか、と。  しかし、周りの人間達は遠巻きに見ているだけであった。もちろん気遣わしげに見ている人間もいたが、酔っぱらいの剣幕に近寄って来れない。  震える手でミニタオルを握る絵里は、当然だ、と思ってしまった。『こんなに怒っている人を見て、怖いと思わない人なんて』と。だが、それでも絵里は必死で考えた。  もっとちゃんと謝れば、許してもらえるだろうか。  いや、もう一度ちゃんと床を拭いて。    それとも、逃げた方が?  でも追いつかれたら。  色々と考えはしても、ずっと怒鳴られている事が怖くて、謝る事も逃げずに立ち竦む絵里。  と、その時。  早く来てやれよ、女の子が絡まれてんだ!という言葉や、ここは○○駅の●●線ホームです、という声が絵理の耳に入ってきた。   (あっ! 周りの人が誰かを呼んでくれてる!)  駆け出す足音もあり、すがる思いで絵理は周りに耳を澄ませる。  耳を、澄ませてしまった。 「うぉい!聞いてんのかよお前!」  話を聞いているのか、と腹を立てた男が手を伸ばし、フラフラと絵理の方に踏み出してきた。 (あっ!やだ…!)  泣きべそをかいた絵里が目を瞑ったその時。 ●   「こんにちは~。どうしたんです?」  絵理のすぐ目の前から声が聞こえてきた。絵里が恐る恐る目を明けると、紺色のスーツを着た男性の背中が見えた。 「何かあったんですか?」  話し方は優しげだが、男より頭一つ高い身長とガッシリとした身体、良く通る低めの声で近寄ったスーツの男性に、男の勢いが弱まる。 「おう……、そこのガキが水を撒き散らしやがったんだよ。危ねえったらありゃしねえ」  それを聞いたスーツの男性が水道辺りを眺めて、ああ、と頷いた。 「そうだったんですね。それは一理あるかな」 「だっろぉ?」  二人の会話を聞いて、助けて貰えるのかと思っていた絵理の心臓がドクン!と跳ねた。  話をしている間に走って逃げようか、でも追いつかれたら、と逡巡している時に、絵里はある事に気が付いた。  ひらひら、ひらひら。  手を後ろに組んだスーツの男性の片手が動いていた。その意味が分からずに絵里が立ちすくんでいると、手の動きが早くなった。思わず顔を上げた絵里は、スーツの男性が壁になり男から自分が見えていない事に気づいた。    そして。  次の瞬間に見たスーツの男性の手の動きに、絵里は逃げる決心した。  心の中でごめんなさいありがとうございます、と頭を下げた後、絵里はスーツの男性と正反対の方向に走ったのだった。 ●  自宅に着いて玄関にへたり込んだ絵里を見て、絵理の母親は驚いた。  だが、絵理の話を聞いた後に駅に電話をし、喧嘩で怪我をした男性がいなかったかどうか確認してくれた。  「あの駅で怪我をした男の人はいないそうよ」  その言葉に絵里は安堵の息を漏らした。そして、礼も言わずに逃げ出してしまった事に悔やむ絵理の背中を、事情を知った母親はポン、と叩いた。 「今度お礼を言えるといいわねえ」 ●  それから暫くの間、絵里はその駅を通る度に、作業服の男がいないかビクビクしながら助けてくれた男性を探した。  スーツを見ては、あの人かも、いや違うかも、と。  だが、簡単には見つけられるはずが無かった。  絵里はスーツの男性の顔も見ていないのだ。  結局、手紙と何度も作り直したお菓子をカバンに忍ばせたまま絵里は高校を卒業した。短大に通うようになってから違う路線を使うようになってからも、絵里はその駅で降りる度に名も知らない恩人の背中を探した。  ●  そして、今も。  絵里はその駅を使う度に、スーツ姿の男性を目で追う。  顔も、名前も、年も、何もかもわからない人。  これはもしかしたら恋なのか。  それとも出逢えたら恋が始まるのか。  絵里がいくら考えても、答えは出て来なかった。  ただ、あの日。  男性の背中で見た手の動きを思い出す度、絵里は胸がキュッとなる。  追い払う仕草の後の、オッケーのサイン。  まるで、「任せて」と言うような。  それだけは昨日の事のように、鮮明に思い出せるのだ。 ●  絵里は今でも。鞄の中にお礼の手紙を忍ばせている。  もし奇跡が起きて出会えたとしても、あの男性があの日の出来事や自分の事を全く覚えていない可能性は高い、とも絵里は当然思っている。  思ってはいる、のだが。  でも、もし。  もし万が一。  もう一度出会えたら。  お菓子を渡すのではなく、手紙を渡すだけじゃなく、お礼の気持ちを込めて食事に誘うんだ、と絵里は心に決めている。  あの時の、そして数年分の。  胸いっぱいの温かな気持ちと感謝を目を見て伝えられれば、と。  そう、思っている。 【了】 ●  貴方の何気ない優しさを、思いやりを。  今も、忘れられない人がいるかもしれません。
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