<前編>

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<前編>

 これは十年ほど前、とある会社での出来事だ。  二十八歳。転職した私が入ったのは、某大手通信会社だった。といっても、正社員ではなくいわゆる契約社員の扱い。暫くそこで勤務して、ある程度時間がすぎて認められると正社員に昇格できる――そんなシステムだったらしい。  契約社員とはいえ、やはり大手企業というだけあってサポートは万全である。かつて某レストランで働いていた時、有給休暇を申請しても握りつぶされるという経験をしていた私からすれば、入社して半年でちゃんと十日の有給がつき、申請が通るというだけで魅力的なのだった。  まあよくよく考えるとその大手企業がしっかりしているというより、前の職場が露骨なブラックだったのが原因なのだけれども(人間は往往にして、比較でものを考える生き物である)。 「も、元木舞依(もときまい)です。よ、よろしくお願い致します!」  子供の頃からアガリ症でパニックになりやすい私。前職の接客業はそれを克服したくてやっていたようなものだったが、残念ながらあまり進歩はしていなかった。  ここで私が務めることになるのは、いわゆるデータ入力の業務。一般事務の部類に入ることだろう。他の数人の新人契約社員と一緒に挨拶した私の声は、ものの見事にひっくり返っていたのだった。  男女比が同じくらいだった前職と比較して、今度の職場は課長を除いた全員が女性だった。正確に言うなら他の部署にはもう少し男性がいるのだが、入力業務を行う契約社員と正社員、チーフは全て女性だったわけである。  しかも、そこそこ年齢の高い人が多かった。一番上の人だと六十代もいたように思う。明らかに私が一番の年下で、それが余計に緊張したのだった。 ――い、今までこんなに、年上の女の人と話したことなんてない……!  前職では、時々やってくるエリアマネージャーでさえ四十代。店長も同様。そして彼らはみんな男性だった。世の中には男性が苦手という女性も多いのだろうが、私は周りにいたのが“真っ当な男性”ばかりだったこともあってさほど警戒心はなかったのである。  彼らは年下で、女である私に対してどこまでも親切だった。企業そのものはブラックだったのでやめざるをえなかったのだが、人という意味では非常に恵まれた職場だったのである。お付き合いをするたとか友人として親密になるなんてことを考えず、ビジネスライクな関係でいいのであれば男性たちは極めて付き合いやすいタイプだった。  無論女性の仲間や先輩もいたが、彼女らの多くは年が近い人ばかりである。話も合ったし、非常に優しい人達ばかりだった。それまでの自分が、彼ら彼女らに甘やかされていたのだろうということは、自分でも自覚があったのである。 ――これからはそうはいかない。先輩たちに迷惑かけないように、嫌われないようにしなきゃ。  緊張して頭を下げる私に、チーフをはじめとした女性の先輩たちは笑顔で言ってくれた。 「そんなにアガらなくていいわよ、誰だってはじめは初心者なんだし!よろしくね、元木さん」 「は、はい!」  その様子に、どれほど安心したかしれない。  憧れの大企業。新たな環境での社会人生活。  一生懸命仕事して人の役に立って、いずれは夢のためにじっくりと貯金をしよう。入社初日、私は期待と不安に胸を膨らませていたのだった。
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