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そうして、今日の思い出を心に刻んでいると、静かな部屋に、電話の音が鳴り響く。彼からだ。私の第六感が不吉な予感を察知する。
電話に出ると、彼の荒い息遣いが聞こえてくる。
「ヤバい。鍵。無くした。」
「車の?」
「いや。自転車の。」
途切れ途切れの言葉が、彼の焦りを代弁している。しかし、ともかく、事故に遭ったという類のものでないことに、私はほっと胸を撫で下ろす。瞬間的に高くなった心拍数も少し落ち着いてきた。
「それなら、今から向かうから、場所を教えて欲しい。」
もちろん、彼は運転で疲れているのだ。ここで動かず、いつ動く。
「いや。もう。自転車抱えて。家まで。走ってる。できるなら。大通りまで。出て来て欲しい。そこまで。頑張るから。」
「もちろん。そんぐらい全然大丈夫やけど、、、まじ無理せずに気をつけて。」
「了解。じゃあ。また。あとで。」
電話が切れ、最低限の荷物を持ち、家を出る。約束の場所まで急いで駆ける。すぐに着いたが、ただ待っているのは忍びない。彼にLINEで大まかな方向を聞き、再び走り出す。
京都の碁盤の目は、教科書で上から俯瞰するのとは規模が違うらしい。かなり走ったと思ったが、全然近づいている感じがしない。
なかなか見えてこないため、方向が間違っているのではないかと不安に思い、電話を連続でかける。暫くして、彼が電話に出る。どうやら、方向は合っており、かなり近づいているようだ。そのままスマホを耳に当てて走り続ける。
ふと、目を凝らすと、歪な物体を担ぎながらとぼとぼと歩いている影が目に留まった。「見つけた。」そう言って私は全速力で駆け出す。彼も顔を上げ、私を認識する。押しているのではなく、担いでいる姿に若干驚きはしたが、それよりも会えた嬉しさが勝り、再再会を共に喜ぶ。
彼の話によると、鍵がない状態では盗難防止のため、前輪すらも緩いロック状態になるらしい。そのため、最初は押していたが次第に曲がってきてしまい、容易には押せないので担いだ方が楽だという。
友の存在は大きな安堵を与えてくれる。互いに安心し、落ち着いた私たちは、笑う余裕も取り戻した。そして、より簡単な運搬方法を模索する。彼の担ぐ方法は、引越しのバイトをしていたからこそできる所業で、私には不可能だった。そのため、もう一つの彼が見つけた方法を試す。前輪を斜めに地面につけて転がし、後ろを手で持ち上げるという方法だ。これは、まるで大道芸のようで、サーカスと名付けた。これを気に入り、しばらく続けたものの、この方法では後ろを持ち上げる左の腕が短時間で悲鳴をあげてしまう。そのため、別の方法は無いかと試行錯誤していると、何故か急に軽くなった。私は重心を捉えることに成功したのだ。これなら家まで持って行けそうである。彼には運転してくれた恩もあり、私が運ぶと決心する。ここは腕の、いや腕力の見せ所だった。
家に着く頃には、とうに限界を超えていた。私を支えるものは、僅かな気力と、鮮やかな思い出だった。自転車を置いて、営業時間が迫る銭湯へと急いで向かう。
それは、客観的に見て殊に素晴らしいというわけではなかったが、普段はシャワーだけで済ませ、ここ数年銭湯や温泉に行っていない私にとっては新鮮なものだった。軽くシャワーで体を洗った後、すぐに湯船に浸かる。温かい湯は、私を優しく包み込む。疲れがすっと溶けてゆく。先客は数名いたものの時間も遅いため、気づけば湯船に浮かぶのは私たち2人だけとなった。
今日の旅路を振り返った後、話題は近い将来のことに関することに移っていった。彼は資格について考えているらしい。ただ漠然と過ごしている私は、またしても乖離を実感する。しかしその乖離も、温かいお湯に溶け込んでゆく。疲れが取れた私の脳は、彼からの刺激を正の方向へと転換する。次の学期は以前から少し気になっていた資格に私も挑戦してみようと、静かに心に誓った。
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