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ただいま
そして、翌日
楓組公演集合日
「おはようございます。
明日から稽古になりますので、よろしくお願いします。
なお、今回の公演に、
専科から七杜ひかりさんが出演されます。
一言ご挨拶お願いします。」
「おはようございます。
専科の七杜ひかりでございます。
初めまして、の方もいらっしゃいますが、研1から3年間お世話になった組ですので、気分は“ただいま”という感じです。
専科になって初めての公演です。
分からないことばかりなので、また、研1に戻ったつもりで、やらせていただきます。
色々また、質問に行くことになると思いますので、よろしくお願いします。」
「では、各自台本を受け取って、今日の連絡事項は特にないので、これで解散します。」
幕末の和物か…
和物って、ほとんど経験ないわ…
しかも、“池田屋の女将”、
池田屋事件が起きた旅籠の女将だけど、
庶民で女性だから、ほとんど資料はないかもしれない…。
新撰組は有名だし、華苑の舞台でも何度も取り上げている題材だけど、
今回のは、倒幕側から見た、
全くのオリジナル作品ね。
パラパラと台本を眺めた後、
ひかりは、よしっと立ち上がって部屋を出た。
外に出てタクシーを拾うと
「枚方のTSUTAYA、T-Siteのある方ね。
そこまでお願いします。」
目的のTSUTAYAに着くと、
さっそく幕末の資料を探した。
“池田屋事件”を扱った本はかなりあった。
だが、旅籠の女将がどんな人物だったのか、それがわかる物はなさそうだった。
かろうじて、その女将と家族の名前を記録してあるものが見つかっただけだ。
名前しか分からない人物をどう作っていこうか、考えた。
これまでは、主役なので台詞も多く、原作があったり、その人物の背景を知る手掛かりがあった。
それを、自分の中に落とし込んで、
その人物を生きれば良かった。
池田屋が、どういう旅籠だったのか。
なぜ、そこで“池田屋事件”が起きたのか。
夫である池田屋の主はどういう人物か。
それを知っておくことは、必須で、
ある程度参考にはなるだろう。
だが、それだけでは役作りは出来ない。
どう役を作ればよいのか、
資料を目の前にして、途方に暮れた。
この芝居の主人公は、長州藩の桂小五郎。
後の木戸孝允だ。
彼は、倒幕派のリーダーと目されていて、常に追われていたが、逃げの“桂”
と言われるほど何度も危ない場面を逃げて生き延びてきた、とそんな知識はあった。
けれど、調べてみると、どうやらそれは、
後に描かれた物語から出た説で、
桂が生きていた当時言われていたことではないらしい。
幾松という売れっ子の芸妓の恋人がいて、
彼を匿ったり助けたことは事実で、
後に明治になってから、身分を越えて正式な妻とした。
この、桂と幾松の恋物語と逃亡劇が、
今回の演目のメインになる。
男は、大義のために命を賭け、
女は“愛”のために命を賭ける。
そんな、歴史的事件を背景にしたラブストーリーだ。
だから、ひかりの役は物語の本筋には余り関わらない人物ということになる。
どうしたら良いか、
考えるほどに悩ましくなってきた。
池田屋は、ただの旅籠ではなく、
倒幕派の拠点となっていたようだ。
となれば、当然主だけの思いでは出来ることではない。
女将は、分かっていて様々な協力をしたのだろうか?
なぜ、危ない倒幕派に力を貸したのか?
夫を愛するが故、夫の考えに従ったのか?
幾松と女将は知り合いだったのではないか?
迷路に落ち込んだ気分を変えようと、飲み物を取りに行った。
「アールグレーのホットをお願いします。」
飲み物を注文して、ふと店内を見回した。
たくさんあの人が働いている。
お客から見える所で働いている人。
おそらく、見えないバックヤードにもたくさんいるに違いない。
時折、バックヤードから、店内に入ってきて、商品を補充したり、店内の在庫を確認して、またバックヤードに戻っていく者がいた。
お客様からみえているか否かに拘わらず、
仕事は続いている。
そうか!とひかりは気付いた。
舞台の上の、ライトが当たっている所ばかり考えていたから分からなかったんだ。
舞台の上に居なくても、ライトが当たっていなくても、
旅籠の女将は女将の仕事をしているはずだ。
朝起きてから寝床に入るまで。
ライトが当たるのは、主役とその近くにいる人だけだ。でも、それ以外にも舞台には何人も人がいるではないか。
女将は舞台の隅で、帳簿を付けているかもしれない。出立する旅人のために握り飯を握っているのかもしれない。
これまで通りやればいいんだ。
舞台全体を把握して、旅籠の女将を生きればいいんだ。
その事に気付くと、ひかりはある人に電話をかけた。
「もしもし、ほのかさんですか?
七杜ひかりでございます。
突然お電話して、申し訳ございません。
お願いしたいことがあって、
今お話ししても大丈夫でしょうか?」
「ええ。退団の時は、ひかりさんにご迷惑をお掛けして、そのままになっていたので、申し訳ないと思っていました。
私でお役に立つことがあれば、
なんでも仰って。」
「ありがとうございます。
ほのかさんなら、お着物もたくさんお持ちではないかと思いまして。
実は、次の公演の演目が幕末の和物で、
私は和物を演じるのは初めてですし、
着物での所作に慣れておりません。
音楽学校で、日舞の授業やお茶のお稽古で着たぐらいしかないのです。
それで、普段着の着物を何着か貸していただけないかと思い、お電話しました。
稽古期間中、着物で過ごすことで、
少しでもそれらしい所作が身につけばと思いまして。」
「普段着がよろしいの?
訪問着とかではなく?」
「はい、旅籠の女将の役ですので、
普段着があれば、その方がいいかと。」
「分かりました。
今日これからおいでになれる?
うちの住所はご存知だったかしら?」
「はい、以前おしえていただいたので。」
「それなら、ご用意してお待ちしてますから。」
「ありがとうございます。
失礼します。」
よし!っと気合を入れて、手土産を購入してタクシーを呼び、
雅野ほのかの家を訪ねた。
「お久しぶり。お元気そうね。」
「ほのかさんも、すっかりお元気になられたようで、良かったです。
突然のお願いでお邪魔しまして申し訳ございません。
お口に合うかどうか分かりませんが。」と手土産を出した。
「お気遣いいただかなくても、いいのに。頂戴しますね。
今、母が参りますから、
着物は母の方が詳しいので。」
コンコンと音がして、ほのかの母がやって来た。
「今日は、突然お邪魔いたしまして申し訳ございません。
七杜ひかりと申します。」
「ようこそ、七杜さん。
何度も舞台は拝見させていただいてます。
ほのかからお話は聞いております。
忙しいでしょうから、先に用事は済ませてしまいましょうか。
普段着の着物、4,5着あればよろしいかしらね。
こんなのどうかと、取りあえず出してみたんですけど。お稽古への行き帰りなんかにお召しになるんでしょ。」
「稽古期間中は、なるべく着物で過ごそうと思っています。
旅籠の女将の役なので、動きやすくて丈夫な生地の物が良いのかなと。
柄や色は地味でもかまいません。」
「それなら、木綿の洗える着物なら、汚れても大丈夫だから、いいんじゃない?
こんなのなら、色とか柄とかも似合いそうだし。
小物を替えると、印象も変わるから色々楽しめるわよ。
襦袢とか肌着はお持ちなの?」
「音楽学校で日舞の時に着た浴衣しかないので、肌着類は、購入しようと思ってました。」
「それなら、初めて着物を着る方向けの『小物セット』と肌着・長襦袢を私がプレゼントしますわ。
足袋、草履から、小物がセットになっているから、後は着るだけだから。」
「いえ、着物をお借りするだけでも、
先輩に甘えさせていただいて申し訳ないのに、
それは、自分で用意しますので。」
「ひかりさんには、ほのかが退団する時に、ご迷惑をおかけしたままだったんですもの。
遠慮なさらず、そうさせて。
着物は、この3着でいいかしら?
帯と帯揚げ・帯締めは、私に任せていただける?
色々コーディネートできるように組み合わせるから。」
「お母様、楽しそうね。」
「あら、ごめんなさい。
私がはしゃいじゃって。
着物が好きな物だから。
飲み物を持ってきますね。
お抹茶は、苦手かしら?」
「いえ、好きです。
自分ではなかなかいただく機会はないですが。」
「着物を選んでいたら、お抹茶をいだきたくなったから、お付き合いしてね。」
「ひかりさん、ありがとう。」
「えっ、こちらこそお時間取っていただいて…」
「私が退団してから、
母も少し気持が沈みがちだったの。
でも、好きな着物を選んでいるうちに元気になったみたい。
良かったわ、私に声をかけて下さって。」
「お待たせしました。
お手前するわけではないから、
気楽に飲んでくださいな。
お菓子をどうぞ。」
「いただきます。」
「とても久しぶりなんですが、
お抹茶って、こんなに甘かったですか?」
「苦くないでしょ。
濃茶にもできるお抹茶だから、
苦いけど甘みがあるの。
お抹茶が苦手な方でも、
これなら大概美味しいと言って下さるわ。
じゃ、ひかりさん、後でまとめて
今日のうちにお宅にお届けしますから。
お稽古頑張って下さいね。」
「今日は、ほんとうにありがとうございました。
これで、心置きなく稽古に打ち込めます。
私、脇役って初めてで、どうしていいか悩んでたんです。
でも、やれそうな気がしてきました。」
「そう。お役に立てて良かったわ。
私も、初日観にいきますね。」
「はい、ありがとうございました。
失礼します。」
雅野邸を辞したひかりは、
今度は扇涼に電話した。
「もしもし、扇さんですか?ひかりです。
お疲れ様です。
今、お話しても大丈夫ですか?」
「ひかりちゃ~ん。お疲れ!
今日は、オフなの?」
「今日は、集合日でした。」
「そっか。で、なに?」
嬉しそうに尋ねる扇。
「あの、大阪近辺で旅館を営んでるお知り合いとか、行きつけの旅館で女将さんと個人的なお願いが出来る方とかいらっしやらないかお聞きしたくて、電話しました。」
「次の公演の役作り、ね?」
「はい…」
「どんな役なの?」
「幕末の京都が舞台の和物で、
私は、池田屋の女将なんです。」
「結構難しいとこきたね。」
「脇役も初めてですし、
和物も初めてなんで、どうしたらいいか手探り状態ですが、
なんとかやっています。」
「で、旅館の女将がどんなことをするのか、知りたいのね。」
「はい、幕末と今では違うことも多いでしょうが、参考にはなるかなと思って。」
「分かった。心当たりないでもないから、当たってみる。
次のオフは、いつ?」
「来週の水曜日です。」
「じゃ、それに間に合うように連絡するから。
楓組の皆、元気にしてた?」
「はい。下級生とか組替えで来た方とかもいますが、
なんか、古巣に帰った気分です。」
「なら、伸び伸びできるね。
皆によろしく。また、連絡するね。」
「はい、お願いします。」
これで、今出来ることはやり切った。
夕方、宅配便で雅野邸から、
着物と小物セット等、一式が届いた。
さっそく、衣紋掛けに着物を掛け、
明日直ぐに着られるように準備した。
着物で大きいバックを肩にかけて歩くのも変なので、
キャリーバッグに、稽古の時に使うレッスン着やその他の“いつも使う物”を詰め替えた。
和物の稽古だから、浴衣も入れた。
今晩のうちに、着付けの復習もしておかなければ。
明日の朝は、ウォーミングアップも、バーレッスンも済ませてからだから、早く寝ないとね。
今日も、忙しく充実したひかりの一日が終わる…
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