東京公演

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翌日 東京公演へ向けての稽古は明日からだったので、今日は、貴重なオフの日。 やりたいことは山ほどあったが、 3年半お世話になった受験スクールに挨拶に行って、後輩を励ましたいと思っていた。 それと、通い詰めた代官山のTSUTAYAにも久しぶりに行って、 心の洗濯をしたいと思っていた。 「おばあちゃん、おはよう。 今日、色々行きたい所があるから、 もう出掛けるね。」 「朝ご飯はいいのかい?」 「そうだ、昨夜のうちに言っとけば良かったね。ゴメンなさい。 出先で食べるから、行って来ます。 あ、健さんおはよう。」 「おはよう。星彩、早いんだな。 もう出掛けるの?」 「明日から稽古だから。 今日しか空いてなくて。 行って来ます。」 「俺も、昨日残してきた仕事があるから、早めに出るかな。 おばあちゃん、朝ご飯は済んだの?」 「星彩ちゃんと一緒にと思ってまだよ。」 「じゃ、一緒に食べよう。 俺も食べ終わったら、早めに出るから。」 「そうかい。 じゃ、いただきましょうか?」 受験スクールは、生徒が来るのは夕方だから、その前に行くとしても、午後の方が良いだろう。 次の公演の演目は、年間計画で決まっているので、それに関する資料も読んでおきたかった。 だから、まず、代官山に行くことにした。 店の中に入ると、広々として静かな空間が広がっている。たくさんの書物に囲まれて、この図書館と喫茶店が融合したような、この落ちついた雰囲気もひかりのお気に入りだ。 書棚の前に立つと、つい、あれもこれも読みたくなるが、そこは我慢して、次の公演の演目に関わる本を探す。 次は、『古代ロマン・長屋王』(仮題)だ。 長屋王の変が分かりやすく書かれた本を探した。 3冊選び、座席に戻って、電話をかけた。 「もしもし、以前そちらのスクールでお世話になった安倍星彩と申します。 午後からご挨拶に伺いたいのですが、代表とお目にかかる時間ございますでしょうか? では、2時過ぎに伺いますので、 よろしくお願いします。失礼します。」 後輩たちに会うのも楽しみだ。 朝食がまだだったので、飲み物と軽食もとってきて、本を読み始めた。 …そうか…“長屋王の変”といわれているけれど、長屋王が謀叛を起こすわけないのね。どちらかというと、藤原四兄弟に嵌められた事件なんだ…。 女帝(元明天皇)の信頼も篤く、実質的な権力者。元明天皇の次女が奥さんで3人息子もいて。 この、長屋王が扇さんの役ね。 で、私の役は“元正天皇”か。余り名前を聞いたことがない方だわ。 “氷高皇女”即位前のお名前が素敵ね。 長屋王と恋仲だったけど、皇位を継ぐために独身を通された悲劇の女性として描かれるんだろうな。 息子3人が皇位継承権があったのね。 だから、基王(聖武天皇長男)が亡くなったのを利用して、藤原四兄弟が、長屋王とその皇位継承権を持つ子供たちを陥れたのね。夫人の吉備内親王も自害しているわ。天皇の娘だから、皇位継承権があったのかしら?きっと、そうね。 愛する人と、家族を失って、独り残された“氷高皇女”は、どんな気持だったのかしら? 藤原四兄弟に恐れられるほど、長屋王は、有能で立派な方だったのね、きっと。扇さんが演じられたら、凛々しい貴公子になるわね。目に浮かぶなぁ。 その、長屋王を慕いながらも、国のために皇位につく氷高皇女も、なよなよとした女ではなくて、凜としていなければダメよね。 次の公演の役の人物像がおおよそイメージできた。 もう少し、食べ物を取ってきて、 昼も済ませてから、受験スクールに挨拶に行くことにした。 それにしても、奈良県かぁ。近いけど行ったことないわ。 古代の遺跡が沢山あるのよね。 今度、行ってみようかしら。 せっかく、関西にいるんだし、古代史は、分かっていない事が多いから、尚更想像をかき立てられるわよね。 それにしても、なんで奈良だったんだろう?大陸から文化はもたらされたって言うけど、そうしたら、もっと海に近いところの方が、情報を得やすいような気もするんだけど…。 勉強しないといけないことも、一杯あるなぁ。 さて、そろそろ、受験スクールに向かおうかな、と席を立ち本を返却して店を出た。 「おはようございます。 先ほどお電話した、七杜ひかりと申します。 代表は、おいでになりますか?」 「おはようございます。 部屋でお待ちです。ご案内します。 失礼します。 七杜ひかりさんがいらっしゃいました。」 「星彩ちゃん、いや、七杜ひかりさん、だね。トップ娘役、就任おめでとう。どうぞ、座って。飲み物何が良いかしら?」 「温かい紅茶で。」 「スミマセン、ホットコーヒーひとつと紅茶お願いします。 忙しいのに、顔出してくれて、嬉しいわ~。」 「すっかりご無沙汰で、スミマセン。東京公演の時しかご挨拶に伺えないなと思って。明日から稽古なので、今日お目にかかれて良かったです。」 「忙しいでしょ。」 「そうですね。まだ、分からないことが多くて。」 「でも、良くやってるわ。 大阪のお披露目公演も評判良かったみたいね。聞いてるよ~、大阪校の代表から。」 「ほんとに、こちらで3年半お世話になったお陰でなんとかやってます。 あの頃、一緒に頑張ってた仲間が、先輩にたくさんいるので、メイクの仕方からアクセサリーの作り方、もう何もかも教えていただいて、手伝ってもらって、凄く助かってます。 私、何も分からないうちにトップになってしまったので。」 「そっか~。 あの時は、周りが年上ばかりで、やりにくいこともあったろうけど、私たちもね、大丈夫かなって、やっていけるかなって、精神的にね。心配してた。実はね。 でも、そこで負けないで頑張った事が今役に立ってるのね。 努力は、裏切らないね。」 「ほんと、そう思います。 今日、差し支えなければ、後輩の子たちを激励して行きたいんですけど、 お邪魔じゃないですか?」 「ううん、喜ぶよ~みんな。励ましてあげて。 後、1時間くらいしたら、早い子は来るかな。 レッスンは、17時からだけど。」 「それまで、稽古場お借りしてもいいですか? 明日から稽古始まるので、身体ほぐしておきたいんで。」 「ちゃんと、レッスン着用意してきたんだ。さすがね。どうぞ、お使いください。」 「空いているロッカー、お借りしますね。」 「どうぞ。勝手知ったる~、でしょ。」 更衣室に行って、レッスン着に着替えた。毎日通っていた日々がつい昨日のように、懐かしく思い出された。 失礼します。と一礼してレッスン室に入った。 柔軟体操、ストレッチをして、身体をほぐしてゆく。 ほんの数日、休んだだけでも身体は違ってくる。それをゆっくりと稽古できる身体に戻してゆく。 ある程度身体が温まったので、バーレッスンを始めた。 一通りバーレッスンが終わった頃、 生徒たちがやって来たようだった。 「失礼します。」と一礼して、ひとりふたりとレッスン室に入ってきた。 ひかりは汗を拭って、身体を冷やさないように、上着を羽織った。 「こんにちは。 ここの卒業生の七杜ひかりです。どうぞ、いつも通り準備始めて下さい。」 結構汗をかいたので、一度着替えに行く。 シャワールームを借りて、下着から一度全部脱いで、別のレッスン着に着替えた。 レッスン室に戻ると、代表とジャズダンスの講師がいて、生徒もほぼ揃ったようだ。 「皆さん、こんにちは。 もう、お気づきの方もいるかと思いますが、ここの卒業生で、楓組トップ娘役の七杜ひかりさんが、今日皆の激励に来てくれました。ひかりさん、どうぞ。」 「皆さん、こんにちは。 七杜ひかりと申します。 今、華苑歌劇団楓組トップ娘役をさせていただいてます。 私も、小6の後半から、こちらのスクールの受験クラスでお世話になりました。 来年受験される方は、もう1年を切っています。焦りを感じたり、辛い時もあると思います。でも、最後まで自分を信じて、これまで積み重ねてきた努力を信じて、合格を勝ち取ってください。 歌劇団で、同じ舞台に立てる日をお待ちしています。 今日は、ジャズダンスのレッスンがあるということなので、私もご一緒にレッスンさせていただきます。よろしくお願いします。」 「では、先輩がいてもいつも通り緊張しないで。バーレッスンから始めますので、各自位置について下さい。 はい、始め。」 音楽が流され、バーレッスンが始まった。 バーレッスンが終わると、ジャズダンスのレッスンが始まった。 「前回やった振りを復習します。」 ひかりは、一番後ろに下がった。 音楽に合わせて身体を揺らしながら少しづつ振りについていく。 「もっと、大きく!」 「気持を爆発させるように!」講師の指示が飛ぶ。 今度は、数名に別れて、音楽に合わせ即興で踊るレッスンになった。 「先生、あのポニーテールにしてる子とやらせてもらってもいいですか?」 「西田さん?いいわよ。 はい、次。西田さん、山本さん、七杜さん」 山本という子はちょっと驚いたようにしたが、西田は臆することなく、激しく力強く踊り出した。 (やっぱり…思った通り…) ひかりも刺激を受けて、負けじと思い切り踊った。 グループごとのレッスンが終わって休憩になった。 「10分休憩します! 西田さん、ちょっと来てくれる?」 「はい!」 「七杜さんが、お話ししたいんですって。」 「廊下に出ましょうか?」 「西田さん、髪を伸ばしてるけど、娘役志望なのかな?」 「えっ、あの…」 「とても、切れが良くて力強いダンスをするからね、ひょっとしたら、ほんとは男役になりたいのかなと、そんな気がしたから。」 「ほんとは、男役になりたいです。 でも、身長が足りなくて…」 「何㎝なの?」「162㎝です。」 「先生には相談した?」 「いえ、まだ。というか、娘役で頑張るしかないなと思ってました。」 「私の母は、七杜ひかるというんだけど、」 「存じ上げてます。素敵な男役さんでしたよね。今でもカッコいいし。 憧れです。」 「母は、娘役志望だったの。 予科の時は、158㎝だったし、あるミュージカルスターの相手役になりたくて、華苑の娘役を経て、それを目指してたの。それが、卒業する時までに173㎝まで伸びたのよ。 165㎝を越えると、ほぼ娘役は、無理でしょ。もう、華苑を辞めようと思ったんですって。 でも、相手役になれなくても、男役として頑張って、その憧れのスターに認めてもらおう、ファンになってもらおうって決めて頑張って男役に転向したの。 身長なんて、いつ伸びるか分からないわよ。やりたいことをやった方が良いと思うの。 劇団に入ってから転向する人だっているんだもの。もし、男役で頑張って、やっぱり身長が足りなくて娘役になったとしても、その経験は、無駄じゃないから。やらないで後悔するより、やりたいことをやれるだけやった方が良いと思う。 それだけ、あなたに伝えたかったの。 劇団で待ってるから、必ず来てね。」 「はい、ありがとうございました。」 西田はレッスン室に戻っていった。 入れ替わるように、代表が廊下に出て来て「ありがとう。」と言った。 「スミマセン、先生。出しゃばったことをして。」 「そんなことない。自分から相談しに来ないから、他の講師とも話してたの。どっちつかずでは、試験そのものを突破できないでしょ。 そろそろ、こっちから言わないとダメかなって考えてたの。」 「歌は聴いてないので分からないですが、ダンスを見ている限り、カッコいい男役になる彼女しか想像できなかったんです。私。だから、身長だけで諦めてるなら、もったいないな、と思って、つい。 私、そろそろ失礼します。皆に挨拶してもいいですか?」 「ええ、お願いします。」 「レッスン中にスミマセン。 今日は、皆さんとレッスンできて、とても刺激を受けました。ありがとうございました。 明日から東京公演に向けての稽古が始まります。 素敵な舞台をお届け出来るよう頑張ります。 次お会いするときは、劇団で。 今日は、ありがとうございました。 失礼します。」 ひかりがレッスン室を出ると、 「七杜さん」と呼び止められた。 振り返ると西田がいた。 「ありがとうございました。私、迷わず、悔いなくやることにしました。 髪を切ります。」 「うん、絶対カッコいい男役になる!劇団で待ってる。じゃあ、ね。」 ひかりは更衣室で着替えてスクールを後にした。 翌年3月 西田は音楽学校に合格したとの連絡をスクールの大阪校代表から受けた。 西田本人からも、 「身長もあれから伸びて165㎝を越えました。男役として、頑張っていきます。」との手紙が届いた。
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