お兄ちゃんじゃなくなった日

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お兄ちゃんじゃなくなった日

華苑音楽学校の入学試験も後一月ほどとなった2月のある日 受験スクールでのレッスンも大詰めとなり、星彩は、今日もヘトヘトになって、駅からの帰り道を歩いていた。 もう少しでマンションに着くという角を曲がろうとした時、健の姿が見えた。 “お兄ちゃん”と声をかけようとしたその時、お兄ちゃんの向こう側に誰かの姿が見えた。思わず身体を隠すように後ずさった。 女性の声が聞こえた。 知っている人の声だった。 酒田先輩… お兄ちゃんと知り合いなの? 違う学校なのになんで? ひょっして、学校祭の時? 「あの、こういうものは、いただけないんで。スミマセン。」 「せめて、手紙だけでも受け取っていただけませんか? 学校祭でお目にかかってから、 ずっとお慕いしていました。」 「ほんとに、スミマセン。 手紙受け取っても、あなたの気持ちに応えることは出来ないんで、受け取れません。 申し訳ありません。」 「どなたか、お付き合いしている方とか、 想っている方がいるんですね。」 「それも、お答え出来ません。 そういう人がいてもいなくても、 もう高校3年になるので、受験があります。 女性と交際したり、手紙のやり取りをする余裕はないんです。 申し訳ありませんが、ご理解ください。」 「そうですね。もう、受験生でいらっしゃる。自分の気持だけで行動してしまって、ご迷惑を考えずスミマセンでした。失礼します。」 先輩は、泣いているみたいだった。 先輩がこっちを見たような気がして、思わずもう一歩後ずさりした。 そうか… 私が中学生になったら、お兄ちゃんは、高校3年生。受験生なんだ。 もう、今までみたいに甘えたり、 頼ったりしちゃいけないんだ。 大事な、大学受験があるんだもの。 それに… 大学生になったら、居なくなるかもしれないんだ。 遠くの大学に行くのかもしれない。 そうでなくても、今の酒田先輩みたいに、 お兄ちゃんの事を好きになる人がきっといる。 お兄ちゃんは優しいしカッコイイもの。 私は、中学生。 しかも、華苑音楽学校を目指している。 もう、お兄ちゃんとは別の道を選んで歩きだしたんだ。自分の意思で。 お兄ちゃんはいつでも“星彩の味方だよ”と言ってくれる。 でもそれは、“妹”だからだ。 分かってたはずなのに、 お兄ちゃんは私のことが大好きで、 ずっと自分の物だと、 何をしても待っていてくれる、 見ていてくれると勘違いしてた。 なんて、バカなんだろう私。 いつの間にか涙が出ていた。 拭いても拭いても涙が出た。 遠回りして、マンションの裏手から入って、おばあちゃんの待つ部屋でなく、自分の部屋に行こうと思った。 思い切り泣きたかった。 「星彩!」 健の声がして、びくっとした。 「ダメ!こっちに来ないで!」 「なんで、逃げんだよ?」 「顔みないで…」 「泣いてるのか?」 それには応えず 「おばあちゃんに、ご飯いらないから、今日は疲れたからお母さんと一緒に寝るって言っといて。」 「そのくらいのこと、自分で言ってから部屋に行けよ。 それが、ご飯作って待ってくれてるおばあちゃんへの礼儀ってもんだろう?違うか? そんなやり方、星彩らしくないぞ。」 分かってる。悪いのは私。 お兄ちゃんが言う通り。 でも、今の私は、気持がぐちゃぐちゃで素直になれなかった。 「ほら、部屋行くぞ!」と お兄ちゃんが私の手首を握った。 私は思わず手を振り払って、 「やめて! どうせ、私は、バカで礼儀知らずのどうしようもないただの小学生よ。 お兄ちゃんのばか!」 バシッ!! 何が起きたのが一瞬分からなかった。 お兄ちゃんが、私の頬を叩いた音だった。 お兄ちゃんは、もう何も言わず私の手首を取って有無を言わさずズンズン歩いて部屋に戻った。 黙ったまま部屋の鍵を開ける。 「ただ今!おばあちゃん、いる?」 「お帰り、遅かったね。 おや、どうしたんだい?星彩。 健君何かあったの?」 俺はその問に答えず、 「ちょっと… とにかく、ご飯食べさせてやって。 レッスンで疲れてるだろうし。 落ちついたら、話聞いてあげて。 俺がいると話しづらいだろうから、 しばらくファミレスにでもいるから。」 そういうと、お兄ちゃんは居なくなった。 「星彩ちゃん、ご飯の準備しておくから、汗を流しておいで。」 「はい。 ごめんなさい。おばあちゃん。」 私は、しゃくり上げながらそう言ってバスルームへ行ってシャワーを浴びた。 その頃、健は母慶子に電話していた。 「もしもし、母さん?健。 仕事中だよね?少し話せる?」 「今、ちょうど休憩中だから大丈夫。何かあったの?」 「うん、まぁ。今日早く帰れない? 星彩が…、とにかく、今おばあちゃんに頼んでは来たんだけど、電話じゃ説明しづらいっていうか、 パニクってるから話を聞いてやって。」 「なるべく早く帰るけど、ひかるちゃんじゃなくて、母さんの方が良いの?」 「そこは、どうなんだろう? 分かんないけど、何か誤解してるんだと思うんだ。 いつもの素直な星彩らしくなくて、 俺では役に立たないというか、火に油を注ぐことになりそうで…」 「今どこに居るの?」 「俺がいると話しづらいだろうから、駅の近くのファミレスにいる。 お腹も空いたしね。」 「一応確認なんだけど、 何かやらかした自覚はある?」 「俺?」 「あ…、のスミマセン。 興奮して、治まりそうにないんで… つい、頬を…」 「叩いたの!!」 「ちょっと、尋常な状態じゃなかったからさ、ショック療法で… つい…スミマセン。」 「とにかく、早く帰ります。ひかるちゃんもね。 健君は、首を洗って待ってなさい。」 「そんな、恐ろしい事言わないで…」 「じゃ、ね。」お袋さん、怖いよ。 深いため息を吐いて、腹が減っては戦ができぬと、ハンバーグ定食を平らげた。
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