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レトロな看板
夏希は大学から帰る途中の道にレトロな看板の珈琲店がある事に何日か前から気づいていた。
沢口夏希は大学2年生。大学は家から近いので電車で通っている。電車も5駅程度なので、歩こうと思えば、近道を通って徒歩で30分程度で家に着く。
大学一年生の時は授業の履修数も多く、芸術大学で課題も多い。美術学部の絵画学科なので、絵を描いている関係で、徒歩でゆっくりなんて事は時間がもったいなくてできなかった。
ただ2年生になってから少し考えが変わった。
学科は1年生で頑張った分履修数もだいぶ減り、絵の課題は相変わらず多いものの、要領もつかめてきた。しかし、先生には要領は良いが、心が足りないと精神論を言われ、何かモヤモヤしていた。
そこで、いつも同じ景色しか見ていないよりは、色々なものを見た方が刺激になって、より良い絵が描けるのではないかと思い始めたのだった。
2年生のGWが終ったころから爽やかな5月の風の吹く中、徒歩で学校に通う日が増えた。行く時と帰りは景色を変える為道路も変える。
そんな中で帰りに使う道でどうにも気になるレトロな感じの看板がかかったいかにも昔の喫茶店です。という風体の珈琲店が気になった。
看板には『煌めきの珈琲』と店名が書かれているのみで、絵は描かれていなかったが、店の入り口の少し高い位置に架けられたその看板は不思議な透明感のある珈琲色をしていて、美術を専攻する夏希にはその素材が気になった。
ガラスにしては、透明感がありすぎるし、プラスチック程安っぽくも見えない。それに、少し昔に流行った看板の様に、その看板は店名の書いてあるところの中がグルグルと回って見える。
でも、それとて、複雑な動きで、とても看板の中にもう一つ何かを置いて、電気で回っている感じもしない。
まるで液体の珈琲が看板の中でグルグルと回っているように見えるのだ。
5月でも少し汗ばむ陽気の日に、夏希はどうしても気になって、ついにこの店に入ってみることにした。
店は両側に人が通れないほど狭い隙間が空いているだけで、建物に挟まれて建っている。
ドアを見ると『引く』と書いてある。
ドアを引いてみると『カランコロン』という、よく喫茶店にありがちなベルが入り口の上についていて、来客を知らせるようになっていた。
「いらっしゃいませ」
茶髪でくりくりの天然パーマのお兄さんが夏希の方を向いた。どことなく顔つきがウサギっぽい。
「どうぞお好きなお席に。」
店内はひんやりと涼しく汗ばんだ夏希には嬉しい温度だった。入り口から見た感じでは、狭いし、人が入っていなさそうだと思った割には、店内は結構広々としていた。
椅子席が10席ほど。4人が向かい合える形で置いてある。
そのうちの3つほどにお客が座っていた。
人が通れなさそうだと思った店の両側の通路にはステンドグラスっぽいガラスがはまり、斜めになった屋根にもこちらは本格的なステンドグラスがはまって、適度な明るさを店内に降らせていた。
夏希は窓際の席を選び、座った。
「いらっしゃいませ。」
先程の茶髪の天然パーマのお兄さんがお水を持ってきておしぼりと一緒にテーブルに置いた。おしぼりは今風のビニールに入ったものではなく、懐かしい感じのしっかりタオルのおしぼりだった。
「お決まりになりましたらお呼びください。そちらにベルがございます。」
お兄さんが示した方を見ると、テーブルの上に小さな呼び鈴があった。自分で降って鳴らすタイプだった。
『う~ん。どこまでもレトロだわ~。』
夏希は思いながら、おしぼりを手に取った。
ひんやりと冷やしたおしぼりはほんのりミントの香りがした。
汗ばんでいた夏希はミントの香りをかいだとたん気が抜けて、ついついおじさんがするようにおしぼりを顔に近づけてしまった。
ひんやりしたおしぼりとミントの香りでスゥッと涼しくなった。
メニューを見てみると
♪♪ 珈琲(ホット) ♪♪
♪♪ 珈琲(アイス) ♪♪
♪♪ 珈琲(煌めき) ♪♪
♪♪ 紅茶(ホット) ♪♪
♪♪ 紅茶(アイス) ♪♪
♪♪ 緑茶(ホット) ♪♪
♪♪ アイスクリーム ♪♪
♪♪ クリームソーダ ♪♪
♪♪ サンドイッチ ♪♪
♪♪ ナポリタン ♪♪
と。
これまたレトロな感じのラインナップが並んでいる。
『珈琲のお店みたいだし、アイスコーヒーかな~。』
と、思いながらメニューを見るともなく見ている夏希の目に
♪♪ 珈琲(煌めき) ♪♪
の文字が入って来た。
『これはホットだろうかアイスだろうか。それに煌めきって店名だよね。じゃ、これにしてみようか。』
夏希は呼び鈴を小さく降った。
『リリン』
涼やかな音がして、茶髪の天然パーマのお兄さんがテーブルにやって来た。
「珈琲(煌めき)をお願いします。これって、ホットですか?アイスですか?」
夏希が聞くと、
「煌めきでございます。」
と、茶髪の天然パーマのお兄さんが答えた。
夏希は首をかしげながらも
「じゃ、それお願いします。」
と、注文した。
すると、茶髪の天然パーマのお兄さんが急に雄弁になった。
「『煌めき』は我が国が誇る珈琲マイスターにしか入れられない珈琲でございます。特徴としては、煌めくような香り。煌めくような風味。煌めくような味。でございます。そして、『煌めき』をお飲みになったお客様はこれからの将来のご自分の希望が『煌めく』ようになるというお飲み物になります。」
「はぁ。珈琲マイスターと言うと、有名な方なのでしょうね。そういえばここのメニュー、お値段が書いてありませんけど、もしかして、すごくお高いのでは?」
学生である夏希はあまりお金を持ち合わせてはいないし、このレトロ然としたお店でカードやらポイントやらで支払いはできそうにない。
茶髪の天然パーマのお兄さんは、首を横に振りながら言った。
「当店のメニューは一律500円となっております。税込みでございます。」
と答えたので、
「では、煌めきをお願いします。」
ともう一度言った。
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