恋もほどろ

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 この部屋で初めて迎えた朝のことを、昨日のことみたいに思い出せる。電車の音で目が覚めた。布団からはみ出た腕はひんやりと冷たくて、でも彼に触れている肌は熱を帯びていた。ほんの少し開いたカーテンの隙間から見える空は綺麗な青で、雲ひとつなく、まるで夜と朝の狭間にいるようだった。  顔を近づけ、子どもみたいにすやすやと眠る恋人を見つめる。好きな人のにおいに包まれひとつの布団を分け合うことや、寝顔を見つめていられること、冷たくなった足を絡めて和哉の熱を感じられること、前の晩に起きたこと。すべてのことが夢みたいで、私はずっとドキドキしていた。  そっと髪を撫でると、和哉は「うーん」と小さくうなり、ゆっくりと瞼を開いた。私を見るなりふにゃっと微笑んで、「おはよ」と呟く。眠気と肌寒さに顔をくしゃっとさせて、私を思い切り抱きしめたのだった。  布団の中で目を覚ますと、身体はびっちりと汗ばんでいた。隣に和哉はいない。この部屋にいる気配すらない。私に向けられた扇風機がカタカタと音を立てて回っているだけだった。おなかにはタオルケットがかかっていて、そばにはきれいに畳まれた服がちょんと置かれている。全部、和哉がそうしてくれたんだとわかった。  のろのろと起き上がり、ローテーブルに目をやると、部屋の鍵と、ノートの端を破ったようなメモ書きが添えられていた。  バイトに行ってくるね。ここにいてもいいし、帰るなら、カギはポストに。  とあった。  扇風機の風量を、弱から強に引き上げる。ぶおん、とすごい勢いで羽が回り、火照り汗ばんだ身体をほんのすこし楽にしてくれる。  あの夜以来、特別なことはなにも起きていない。平日はお互いに大学やらバイトやらに行って、時間が合えば外でごはんを食べたり、金曜の夜はどちらかの家で映画を観たりして過ごした。休日は昼過ぎまでだらだらして、そのうち「おなかすいたね」なんて言いながら、二人で喫茶店に行って、モーニングを食べる。なにも変わらない日常。それなのに、決定的になにかが違うような気がしてしまう。あの夜以来、和哉は私にどこか気を遣っている。これまで以上に尽くしてくれて、好きとか可愛いとか、そういう甘い言葉をたくさんくれて、何度だって抱きしめてくれる。その度に私は、幸せだな、ずっとこうしていたいなと思うのだけれど、同時に、「もう戻れないよ」と心の中の誰かがささやく。あの夜、和哉に抱きしめられたとき、安堵する私の傍ら「馬鹿みたい」と嘲笑ったあの影が、今でも私に喧嘩を売っている。
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