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「おや……」
中門のそばで周建が掃き掃除をしていると、一匹の黒い猫が通りかかった。薄い唇を持ち上げて、柔和に彼が微笑むと、その仔猫が近づいてくる。箒を持つ手を止め、周建が屈んだ。麗しい法衣が揺れている。
もうすぐ十七歳になる彼は、まだ幼さの残る美を誇っていた。猫を見る瞳は純粋で、その部分だけ切り取るならば、子供と評して差し支えがないだろう。
「周建」
そこへ声がかかった。周建が振り返ると、社僧の一人が微笑していた。
「鴨川の先にある茶屋に行って、そこの主人にこの手紙を渡してきてくれ」
「承知しました」
姿勢を正して頷いた周建は、静かに手紙を受け取った。
今は神無月の終わりであり、周建が誕生日を迎えるまでもう数日、雪が降るまではあとふた月は先だ。肌寒くないわけでは無かったが、そのまま周建は出かける事にした。
絡子を揺らしながら歩いていくと、鴨川が視界に入ってきた。歩いている内に日が暮れ始め、空の紺に橙色が混じり始めている。それらの色が、雲の輪郭を際立たせていた。
「ん……?」
その時、すすり泣く声が聞こえてきた。丁度橋を渡り終えた時の事で、足を止めて正面を見る。すると蹲り、一人の女性がきつく目を伏せ、涙を零していた。痩せこけ、髪は乱れている。
別段珍しい町人の姿では無かった。安国寺は裕福であるが、民衆の暮らしは厳しい。
布に赤子を包んで、抱きしめている女性は、こらえようにもこらえきれないといった様子で、頬を涙で濡らしていく。時折咳き込み、鼻水をすすっている。骨のような手で、強く抱きしめている赤子は、既に息絶えているようだった。
衣食住はおろか、葬儀でさえ、満足に出来無い事は、決して珍しい事では無い。それを知るからこそ、安国寺における私腹を肥やす先達の姿が、どうしても重く伸し掛ってくる。彼らは言うのだ。大人になるというのは、見て見ぬふりをする事である、と。だが、大人になりたくても、なりきれない。遣る瀬無い思いを抱きながら、周建が女性に歩み寄ろうとした――その時だった。少し早く、一人の僧が手を差し伸べたのだ。
「私で良ければ、その幼い御霊のために、経文を」
「法師様……っ……お支払い出来るものが何も……」
「結構です。ただ、私が祈りたいだけですので」
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