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日も傾いて、人気もない。ぽつんと世界から置き去りにされてしまったような時間が流れる教室で、タクトは膝を抱えて虚ろな目をしていた。
「誰しもが心の中に闇を抱えているんだ……」
抱えきれない闇が周りに溢れ出ていた。
嗚咽交じりの声に、香苗は困ったように肩をすくめる。とりあえず、タクトに目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「ほら、バカなこと言ってないでさ」
「誰しもが、心に癒えない傷を」
虚ろな目が香苗を透かすように見やる。
「黒歴史だって自覚はあるのね」
タクトの目に力が戻った。
無理やり見たくもない現実に引き戻してくる香苗に、タクトは憤りを隠せない。
「やめろ!」
「何だっけ。滅殺」
「いっそ殺せぇ!」
亀のようにうずくまり羞恥に絶望する。
虚無に落ちたり怒ったり嘆いたり、忙しい。
ころころと変わる表情を、香苗はいっそ楽しみ始めていた。ついつい、イジワルがしたくなってしまう。
「ちゃんと生きようねー」
「お前が殺そうとしてきたくせに!」
「恥ずかしいならやめとけばいいのに」
タクトとしては人に見られることなど想定していなかったのだ。
とっくに人気のなくなった教室。普段はやかましいくらいの運動部も既に校庭からいなくなったような時間に、誰かが教室に来るなんて考えてもいなかった。ひとりきりの補習が終わって変にハイになっていたのもある。
だから、つい。
つい、出来心だったのだ。
「男は誰しも、傘に己の剣を投影せずにはいられないんだ」
最近ハマっているゲームを真似て。安い透明なビニール傘を構えて。その剣を振るなら技名がいるだろうと。
だから。
「それで滅殺」
「やめろ!」
我に返るとどうしてあんなことをしてしまったのか分からない。全くもって分からない。分からないが、やったことは変えられない。
タクトには絶望と膝を抱えて丸くなることしかできなかった。
「見られたのが私で良かったね」
良いわけがない。
良い要素がひとつもない。
確かに香苗なら今はともかくこれから馬鹿にしてくることもないだろうし、今がそうであるように笑って済ませてくれる。
その点の信用はしている。
だが事はそういう問題ではない。タクトにとって、何よりの問題はそこではなかった。
「むしろお前だから詰んだみたいなとこある」
多感な年頃の高校生。気になる子の一人や二人でてくる頃。
己の恥を絶対に見せたくない相手はでてくるものだ。
「何、私が誰かに言いふらすとでも?」
タクトのそんな内心を知る由もない香苗は不満げに唇を尖らせた。
「別にそんなことは思ってないけど」
「歯切れ悪いなぁ」
「いろいろあるんだよ、男の子には」
格好つけたい時とか、見栄を張りたい時とか。
「心の剣的な?」
何の容赦もなかった。
きっちりとタクトの心を殺しにかかっている。楽し気な顔でトドメを刺しにきていた。
「俺、きっと飛べるような気がする」
ちらりと窓に目をやる。
三階校舎とは言え下は植え込み。上手く着地できればどうにかなりそうなどと頭をよぎってしまうのは、心の剣を抜き放ってしまったからか。
タクトは馬鹿な妄想を頭を振って追い出した。
「私が殺したみたいになるからやめてね」
「お前が殺したんだよ」
世の中には見て見ぬふりをしないといけないものもある。
それが優しい世界。
「人聞き悪いなぁ」
「人の心の柔らかい部分に土足で踏み入ってくるお前が悪い」
「教室で傘構えて黒歴史製造してた方が悪いと思う」
ぐうの音も出ない正論だった。
忘れ物をわざわざ取りに帰ってきた香苗。
誰もいないと過信して教室で中二病を発症したタクト。
誰に聞いたところで満場一致だろう。
「雨でも降って何もかも流れ去ったりしないかな」
じわじわと流れてきている暗雲を見ながらタクトはぼやく。
夜から雨と予報は告げていたが、空を見るにもうすぐにでも降りだしてもおかしくはなさそうだった。
香苗もそんな雨の気配を感じたか、億劫そうに眉を顰める。
「私傘ないからその時はいれてね」
その予期せぬ要望に、タクトの口からは思わず「え」とも「へ」ともつかない音が漏れた。
それがどういうことになるか、分かっているのだろうか。
狼狽えるタクトととは対照的に、香苗は当然のように首を傾げた。
「何、女の子に雨の中濡れて帰れって言う気?」
「別にそんなこと言ってないだろ」
本当に雨が降ってくれば、傘を渡して濡れて帰るタイプの人間だ。
であればこそ“相合傘”など想定の外。
肩がつくような距離で、ひとつの傘で歩く。それを、好きな人と。
タクトの思考は既にいっぱいいっぱいだった。
「まぁエッチだもんね」
「そんなこと言ってないだろ!?」
そこに強制的にねじ込まれる、濡れて透ける制服の妄想。
「見たくない?」
「見ない!」
見たくないとは言えなかった。己の心に嘘はつけない。というか、嘘をつく余裕がない。
「正直だねー」
揶揄うように笑う香苗に、タクトはバツが悪そうに顔をしかめた。揶揄われていることが分かっていても、反応しないなんてことはできない。
良いように遊ばれている気分だった。
「つか、バカなこと言ってないでさっさと帰る用意しろよ。本当に降ってくるぞ」
「そうだねー」
ガチャガチャとロッカーをあさる背中に、タクトはバレないように小さくため息を吐いた。
揶揄われているだけだとしても、そういう提案をされる程度には嫌われていないという事実に少し安堵してしまう自分が恨めしい。
「雨、降らねぇかな」
それでも、タクトは思わず空に向かって願ってしまう。
そんな風に空ばかりを見ているから、香苗の耳が少し赤かったことにも、気づかないのだ。
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