安倍先生

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安倍先生

“彼”の交通事故と、芸能界引退から、 私は、抜け殻のようになってしまい、 成績はガタ落ちした。 元々ダンスやバレエは苦手だったから尚更だ。 心を何処かに置き去りにしたかのように、 ただ黙々と日々の日課と授業をこなしているだけっだった。 根が真面目だから、いい加減に手を抜いているわけではなく、一生懸命にはやっている。 ただ、以前のような貪欲さ、燃えるような情熱はなくなっていた。 まるで、ロボットのようだった。 そんな私がかろうじて“人間”らしくなるのは、声楽と演技の授業だった。 特に、悲劇的な内容の歌や演目の練習は、 今の自分の哀しみとやるせなさを吐き出す思いで演じ、歌った。 時に、授業中でさえ涙を流しながら 歌い、演じることさえあった。 それは、鬼気迫るものがあった。 「園ちゃん、私、予科生が終わったら辞めるかもしれない。」 同室の園田にそう言った。 「どうして?ふみちゃん、お芝居も歌も好きでしょ?舞台に立ちたくないの?今まで頑張ってきたじゃない。」 「演技も歌も好きだけど、華苑に来るまでは、自分が舞台に立つ人になると思ってやってたわけじゃなかったもの。 ただ、流星の隣に立ちたかったの。 それだけで、頑張ってきた。 ダンスやバレエは基礎がないから下手だし、娘役がダメならカッコイイ男役になりたいとか、なろうっていう目標っていうか、そういうの、持てなくて。 何に向けて頑張ればいいのか分からなくなっちゃった。」 「やっぱり、流星さんのことがまだ吹っ切れないんだね。」 「私、ただのファンじゃなかったと思うの。彼に恋してたんだよ。だから、あんなにがむしゃらに頑張れたの。 私は、失恋しちゃったの。 髪をバッサリと切れば、少しは踏ん切りが付くのかな。」 大本先生からは、 「とにかく、焦って物事を決めないように。芸能界は復帰できるけれど、 華苑は一度辞めたら二度と戻れないんだから。 本科生になってから、もう一度良く話し合いましょう。」と言われていた。 そして、本科生になった。 皆は、入団に向けて芸名を決めたり、予科生の指導をしたりと一段と力のこもった毎日を過ごしていた。 その中で私だけが糸が切れた凧のように、ふらふらと漂っていた。 そんな、ある日。 「新任の演劇の先生を紹介します。」と教頭先生が教室にやって来た。 新任の先生?今この時期に、誰? 皆が不思議そうにしている中に、 その人は教室に現れた。 「安倍流星先生です。ご存じのように、安倍先生は、交通事故に遭われて、舞台俳優を引退されました。 しかし、その実力を埋もれさせてしまうには惜しく、理事長と私が音楽学校で教えていただけないかと交渉して参りました。 安倍先生には、予科と本科の演劇の授業を担当していただきます。」 「安倍です。今日から、演劇の授業を担当することになりました。 役者上がりで、教師としては新米ですから色々至らぬことも多いかと思いますが、よろしくお願いします。」 夢かと思った。 大好きな人が目の前に居る。 そして、演劇を教えてくれるという。 もう、“彼”の隣に立つことはできなくても、“彼”に認められたい。 私に、新たな目標ができた。 男役になって、トップスターになる。 “彼”より素敵なイケメンになる。 私の一番のファンになってもらう! 私は、失恋ではなく、男役になるために、 その日、伸ばしていた髪をバッサリと切った。
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