夢中に捧ぐ

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「バカ」 耳にその言葉が響いて目が覚めた。目を開ければそこは視界に入る場所すべてが雪のように真っ白だった。何もない空間、何も聞こえない空間。この空間のことを認識した瞬間突如として無性に不安になり反射的に何かを掴もうとする。しかし手は空をきるばかりだった。不安で不安で仕方ない。とにかく何かをつかみたい。ふと私の視界に私の長い髪が入った。それを見た瞬間私はまるではじかれたようにそれを掴む。まだ頼りなくはあるが少しだけ落ち着く。髪を掴みながらもう一度辺りを念入りに見てみた。しかしそこには何もないし誰もいない。ここには本当に、あるものと言えば私という存在だけなんだとさっきまで抱いていた淡い期待を早々に諦めた。ここは何処なんだろうか。自分の名前も、何者なのかも分からない。私は何処からきて何を思っていたのかまったく思い出せない。 「バカ」 あ、また聞こえた。意味は分からないが無性に腹が立つ。 「おや、坊や。どうしたんだい?」 突然背後から聞こえた声に驚いて私は飛び上がった。 反射的に走り出し、その人物から離れようとしたが彼の「待って‼」という声にピタリと止まった。 「待って、待って。君ここが何処だか分かってるの?」 そう聞かれて私はギギギとロボットのようになった首を話しかけてきた人物に向けた。 なんだろう、ぼんやりしてて形がうまく捉えられない。私の二倍ほど背が高くかろうじて黒いローブを羽織っていることは分かるのだがそれ以外はぼんやりとした人型の黒いものがあるということしか分からない。 それに逃げたとしてどこに逃げればいいのか分からない。しかもただびっくりしただけだ。そもそも逃げる理由なんてない。私はそう思いなおして人なのかすら分からない彼に話しかけた。 「す、すみません急に逃げたりして。驚いて咄嗟に逃げなきゃって…思って…」 多分親切に声をかけてくれた人から逃げ出すなんて失礼なことをしてしまった。謝りたいのにどういったら分からなくて中々謝罪の言葉が出てこない。 「あぁ別にいいんだよ。こちらこそ急に声をかけて悪かったね。僕はここを見回っている者だよ。君みたいに迷っている子がいないか探しながらね。一応聞くけど…君帰り道が分からないんだよね?」 私が頷けば彼は私の手を取ってくる。 まるでガラスを触るような優しい手。さっき求めていた掴めるものだけでなくほっとするような人の温もりが側にあるのだ。さっきまで感じていた不安が嘘のように溶けていく。もう髪なんてものをずっと握っている必要はない…はずなのだが… 「…そのー君がずっと髪を離さないのは僕が聞いてもいいことかな?」 「あ、いえなんかそんな痛すぎる理由があるという訳ではなくて、何故か手が髪を離さないんです…」 そう、何故かさっきから手が髪を離そうとしないのだ。髪が引き抜けないほど強く握った自覚はあったが、手を開こうとしてもそれは私のものではない様にぴくりともしないのだ。 「あーなるほど多分それはここの呪いだね。ここでは何が起きるか分からないから。君みたいに体の一部の自由が奪われる子もいるんだ。安心して、僕についてくればその呪いもきっと消えるよ」 なるほど、そういうことならひとまず保留にしておこう。引きちぎることも考えていたのだがせっかくの髪だ。大事にしよう。 「じゃあ、行こうか。しっかり僕の手を握っててね」 優しい声で声をかけながら彼は私の手を引いて歩き出した。足音すらしない道なき道をずんずん迷いなく歩いていく彼。人間何も音がなければ何かを聞きたくなる。私は彼に歩きながら雑談を試みてみようと考えたのだった。 「えっと、お兄さん?であってますか?ちょっと雑談しません?」 私がそう提案すれば、何かにひっかかったようでクスクスと上品な笑い声が聞こえてきた。 「僕はもうお兄さんなんていう年じゃないよ。もう定年間近のおじさんだよ」 「え、そうなんですか?声が若々しいからてっきり歳が近いのかと」 「嬉しいこと言ってくれるね。いやいや全然離れてるよ。君が想像つかないくらいにね」 「へぇー…」 二人の間に沈黙が流れる。ど、どうしよう。話のタネが見当たらない。 私がどうにか話のタネを見つけようとしていることに気づいたのか彼から話を振ってくれた。 「そういえばさ、記憶がないってどんな感じなの?僕は長い間生きてきたせいで記憶に押しつぶされそうなくらいだから経験したことなくてね。教えてよ」 たぶん私と目を合わせて会話しようとしてくれているのか、視線を感じる。 記憶喪失について話してほしい…か。中々難しいお題である。 「そうですね…ずっと知らない街にいるみたいな感じでしょうか?どこに何があるのか定かではない中でずっと迷い続けている。そんな感じです」 「ふーん、それは心細いね。じゃあ、僕が来たときもしかして安心した?」 そう聞かれるとはいと言うには少し照れくさい。私がコクリと頷けばそうかそうかと頭を撫でられた。 「あ、じゃあ逆に記憶がありすぎて困るってどんな感じなんですか?」 「うーん?あんまり意識したことなかったけど…そうだな、君みたいに例えるなら僕の場合はずっと自宅の書斎にいる感じかな?本がいっぱい過ぎて床に本が積まれてるような。全部読んだことがある本なんだけど、本を読み漁るばかりに散らかしすぎて、あるのは分かっているのに見つからない…って感じかな?こんなんでいい?」 「それは大変ですね・・・」 それからは彼は私の状態について私は彼の状態や体のことについて聞いていった。最初に感じていたぎこちなさはどこへやら、気が付けば和気あいあいとした空気が二人の間には流れていた。 しかし楽しい気分を台無しにするようなあの声がまた私の頭に響いた。 「バカ」 ずっと私に付きまとってくる声にうんざりした。意味は分からないが無性に腹が立つ言葉を何度も何度も聞かされてせっかくのいい気分を維持できる訳がなかったのだ。 私が急に顔をしかめだしたので彼は不思議そうに首を傾げた。 「どうしたんだい?そんな怖い顔して。僕なにか変なこと言っちゃったかな?」 心配そうに顔らしき箇所を私に向ける彼。こんな親切な人に誤解をさせてしまったと悟った私は慌てて弁明した。 「い、いえ‼お兄さんはなにもしてません‼ただずっと頭に響いている声があって・・・意味は分からないけどその言葉を聞くと無性に腹が立つんです」 「へぇ…ちなみにどんな声なの?」 「えっと…「バカ」…って聞こえてくるんです」 私のその言葉を聞いた瞬間、彼の息をのむ音が聞こえ私の手を握る力が強くなった。 「君は…その言葉の意味を知りたいかい?あんまりいい意味じゃないんだけど…」 そう聞かれて私は戸惑った。こんな優しい人が言うのを戸惑うのだ。相当ひどい意味なのだろう。しかし私の好奇心というものは恐怖心を軽々と飛び越え自然と催促の言葉を発していた。 「知りたいです」 「そう、分かった。バカっていうのはね、相手のことを貶す時に使うんだ。お前は頭が悪いとか、出来損ないだとか、そういうことを伝える時にね。少なくとも絶対にいい意味じゃない。あんまり気にしないでいいよ。今は僕と一緒にいるから関係ない話だ」 そう言ってお兄さんはまた私の手を強く握った。 そうだ、別に私が今そんなことを気にする必要はない。あんな声、無視すればいいのだ。でもなぜか無視してはいけない気がする。嫌なことだからと言って消してしまってはいけない気がする。 お兄さんと歩き続けてまた少し経った。お兄さんとは雑談を続けていたがまたあの声が聞こえた。 「バカ…」 今度はさっきより小さい声だった。お兄さんと歩き始めてから少しずつ声が小さくなっている気がする。 そんなことをぼーっと考えていた時だった。 「うわっ⁉」 「おっと、大丈夫?」 「い、いえ、なぜか急に誰かに手を引っ張られて…」 突然髪を掴んでいた手が誰かに引っ張られた。その拍子にコケそうになったところをお兄さんが支えてくれたから良かったようなものの、お兄さんがいなかったら転んでいただろう。しかも今も誰かに手を握られている感覚がある。 「何これ、手が見えないのに握られてるって気持ち悪い」 「あぁー中々執着が激しいね、そんな手は…よっと」 お兄さんが腰らしき場所から取り出したナイフで見えない手があるであろう場所に振り下ろす。その瞬間、私を引っ張る力はなくなった。しかし、 「まだ手がくっついてる」 誰かに手を握られているという感覚は消えなかった。私が顔を歪めていればお兄さんは苦笑した。 「君を掴んできたのは君を手に入れたい奴らのものだろうね。君が髪を離せないのと同じ呪いの類だよ。はやく安全なところに行かなくちゃね。君が取られちゃう」 お兄さんはまた手を握る力を強くした。 しばらくお兄さんとまた歩いていたが、ふと私は気になることがあり足を止めた。 「お兄さん」 突然足を止めた私にお兄さんは首を傾げた。 「どうしたの?疲れた?」 お兄さんは優しそうな声を出し、私の目線に合わせてしゃがんだ。 「ねぇ、お兄さんは私をどこに連れていく気なの?」 お兄さんは最初に会った時と同じように子供に言い聞かせるように言う。最初はここが何処かわからず不安でお兄さんの手を取った。お兄さんは話している限りいい人だし、このままついていっても大丈夫だと頭ではわかっているのだが何か引っかかるのだ。さっきの手と言い、この髪から離れない手も。 「その呪いが消えるところだよ、大丈夫。悪いところじゃない。君と同じ男の子もいっぱいいる」 そう言われた瞬間にハッとした。そうだ、このお兄さんはどうして私を男の子だと思っているのか、私は自分の性別は女だということだけは分かっている。髪もこんなに長いのにどうして…髪? 私はお兄さんに気づかれない様に頭を振ってみる。しかし視界に揺れた長い髪が映ることはなかった。 じゃあ、この髪は一体誰の…。 そう考えていた瞬間、あの声がその場に響き渡った。 「バカっ‼バカっ‼誰が死んでいいって言ったのよ⁉せめて声ぐらい聞かせてよ‼お願い、泣いて‼あなたにずっと会いたかったのよ‼ドタキャンなんて許さないわよ⁉」 そう聞こえた瞬間、私の目の前にはぼんやりとしてだが、泣きじゃくっている女性が見えた気がした。 あ、だめだ。こっちに行っちゃ。 そう感じた瞬間に私はお兄さんの手を思いっきり振り払い、掴んでいた髪が続く方向へと走っていく。後ろでお兄さんが何か叫んでいたが、今はそれよりも大事なことがあった。 私も…私もずっとあなたに会いたかった。真っ暗闇の中で私を呼び続けてくれていたあなたにずっと…ありがとうって言いたかったんだ。 走っていった先になにがあるかは知らない。お兄さんの言う通り、怖い世界が広がっているのかもしれない。 でも… 「私はあなたに会いたい‼」」 そう叫んで私は光に飛び込んでいった。 「あー逃げられちゃったかー」 お兄さんはそう言って頭をポリポリと掻いた。 「あと一人で俺も昇進できたのに」 そう言ってはぁとため息をついたお兄さんの前に同じような格好をした人物が現れた。 「あれ、先輩。さっき迷った魂連れてませんでした?」 からかうような口調でそう言う彼にお兄さんは「うるさい」と言いながら彼の頭をはたく。 「あんな魂、誰でも狩り損ねるだろう?現世からの執着が半端じゃない」 お兄さんがそう言えば「確かにーw」と笑う彼。 「愛されてますねーあの子…ほんと妬ましい」 そう言った瞬間彼の顔がゆらゆらと炎のように歪んだ。 「俺ならもうちょい強引に連れてきますね、ああいう子は」 「そうか、死神共に目を付けられたいなら勝手にしろ」 「わー優しいお兄さんの仮面取れてるー。こわーw。まぁ反省文は確実でしょうね。あんな愛されてる子逃がしたんですから」 「はぁ…」 お兄さんはそう言われて大きくため息をついた。 「あ!赤ちゃん息を吹き返しました‼お母さん、お子さん生きてますよ‼」 「はぁ…良かった…」 母と呼ばれた女性はホッしたようにベッドに横になった。 「良かったです、本当に。お母さん、ずっとこの子の名前考えたり、話しかけたりしてたのでそれを頼りにお子さん生きようと頑張ったんじゃないですか?」 そう看護婦が言いながら今は大きく泣いている赤ん坊を運んでくる。 女性はそっと看護婦からわが子を受けとり小さな手に自分の人差し指を絡ませる。 「頑張ったのはこの子よ、私じゃないわ。でももしそうだったら…私酷いこと言っちゃったかもしれないわね。バカなんて…あの時は気が動転してたからつい…。頑張れとか、生きて、とかもっといい言葉があっただろうに。普通の母親じゃなくてごめんね」 「何言ってるんですか‼私素敵だと思いましたよ?この子に生きてほしいって気持ちがすっごく伝わってきました。それに大事なのは言葉づかいじゃなくて、心ですよ」 「看護婦さんがそう言うなら…まぁとにかく‼これからよろしくね、菜乃葉」 女性はわが子にそう話しかけそっと額にキスを落とした。 終
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