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レイン
あ、恵みの雨の音がする。
彼にまた会えるかな。
雨粒を含んだ傘を窓際に置く。先から水滴が落ちて、足元に世界一小さな水たまりを作っていく。
いつもは自転車で行く道を、バスで辿る。
通勤ラッシュはバスにも影響する。私なんかは最初の方に乗るから良いけれど、やはり混んでくる。
歩道には様々な色の傘が咲いていた。世の中がずっと雨なら、きっと毎日がカラフルになるんじゃないかって。
「隣、良いですか?」
どっと人が乗ってくる一つ前のバス停で、彼は尋ねてくる。少し色の抜けた茶色い髪。
紺色の大きい傘。
「はい、どうぞ」
次の次のバス停で降りる高校の制服。友達に聞いたらそう言っていた。
私の雨の日の日課。ただ、これだけの会話を楽しむこと。
ただこれだけのことが、ドキドキさせる。
学年も名前も分からない。最初にそれを聞かれた時は驚いて、頷くだけ。第一、冷たくなっている都会の対応と言われる中で、他人の二人席の片方に座るとは。
それは、普通は期待する。他の人が違っても、私は少なからず期待した。でも、こんな関係になって二ヶ月。
「何も発展しないってことは、あれだ。脈無し」
ばっさりと言い切る友人。
「だって、四月の時はまだ奥手なのかなって思えるけど。もう六月だよ? 奥手にも程がある」
「程がある奥手なのかもしれない」
「答え出てて期待するのは、自分の心に負担をかけるだけじゃない?」
友人は時々、ぐさりというよりさくっと心を切り分けるような事を言う。その通りすぎて、反論もできない。
しとしとと降る雨。
「明日も雨かな……」
結局、期待する自分がいる。
それは、唐突に舞い降りた。
奇跡とかいう類じゃない。因みに期待でもない。
彼の好きな人らしき影。
梅雨に入って、一週間の殆ど毎日をバス通学する。当然のことながら彼も毎日バス通学をしていた。
隣に座る違う制服。会話もない。世界一小さな水たまりだけがバスの揺れによって、うるさく線を描く。
「駒木、おはよー」
知りたかった彼の名前は、彼の口から聞くことは出来なかった。
窓の外を見ていた視線を動かすことなく、会話だけを盗み聞きする。静かなバス内に、小さな声。窓に反射した女子の制服は彼と同じもので。
「え、なんでいんの?」
「いつもこの時間のバス乗ってたんだよ、こっちこそ驚いちゃった」
「知らなかった。早くに気付けば良かった」
いいな、と思った。
普通に言葉を交わせること。しかも、早くに気付いていれば私の隣には座らなかったってこと。
外を見ていた。
次の日から、彼が乗ってくる前のバス停で降りた。
「考えてみれば、何も彼のこと知らないんだよね。クラスとか何が好きとか。名前だって碌に知らなかったわけだし。そんなんで脈有りとか無しとか思われてたら、逆に怖いよね」
教室の窓の外は小雨。最近雨ばっかり。
早く晴れれば良いのに。
「名前知らなくても落ちるのが恋なんじゃないの? 早織がそうだったみたいに」
「……慰めてるの? 咎めてるの?」
「促してるの」
そうもいかない。
晴れろ晴れろと思いながら、朝が来る。
白んだ外の天気は雨。曇天に切れ間はなくて、やはり今日も雨。
いつもより早い時間に家を出て、バスには乗らずに歩いた。
道行く人の傘はカラフルなのに、前より気分は明るくならない。ずっと曇りっぱなし。
空を仰ぐ。きっとその厚い雲の向こうには太陽が燦々と輝いているはずなのに。
彼の乗るバス停にバスが停まっていた。それを追い越してみたけれど、結局追い越された。
なんとなく、いつも私が乗っている席を見た。
……あ。
彼とばっちり目が合った。視力の良い目は、その隣の彼女まで見えてしまった。そんなのは望んでいない。
何も知らない女に一目惚れで嫉妬されるなんて、彼も災難だ。どうしたら、良いんだろう。
泣いてしまいそう。
前を向いてずんずん歩く。流石に漫画の主人公みたいに傘を捨てることは出来なかったけれど。
この気持ちを彼に知られたような気がする。
それが一番、恥ずかしくて怖かった。
パシャパシャと前から走る音。小学生だと思って道の端に寄って歩くと、目の前で止まった。傘を上げる。
「あの、」
息切れしている。まさか、次のバス停から走ってきたとか、そんなことあるわけない。
「隣、良いですか?」
もしかして彼は、この言葉しか言えないのだろうか。
驚いて声も出ないのに、私はただ口を半開きにするだけだった。
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