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「入れ」という野暮ったい言葉と共に、俺は大学の一階、小さい角部屋に足を踏み入れた。この大学に心理カウンセラーがいる事自体、最近知った事だった。 全体では恐らく10%も認知されていないだろう。普段学生がここの事を会話にしている様子を見た事がないし、この部屋に来るまでにこちらに向かう人物の様子は無かった。 「失礼します」  形式的にそう言って部屋を見渡す。そこはカウンセラー室の癖に、仕切りも何も無く、ただ机とパイプ椅子が2台、向かって置かれているだけだった。奥の一台は今座っている男が使っている。  まず一つ驚いたのが、その男の様子だった。足は机の上に放り投げ、競馬新聞を広げながらずっとニヤニヤとしている。余程競馬が好きな人間でも、新聞相手に恋人を見つけた様な笑みを継続する事は難しいだろう。  そしてもう一つは、机の上が散乱し尽くしており、その上大量の薬剤のシートがあった事だった。  これは、まずい所に来てしまったかもしれない。俺はその光景を見て即座に踵を返そうとした。 「ちょっと待て」  相変わらず競馬新聞から目を離さずに、男はそう言い放った。 「お前が保健室を介して予約してきたんだろうが。こっちは待ってやってたんだからバックれるのは許さねえからな。取り敢えずそこ座れ」 カウンセラーとは到底思えない物言いで男はそう言い放った。相変わらず笑みを絶やしていない所に妙な威圧感があり、俺は断れずに椅子に座った。 「まずお前、何か勘違いしてるだろ?」 大戸(おおど)と名乗ったカウンセラーは唐突にそう聞いてきた。勘違いも何も、この光景に勘違いも何もないだろうと感じる。 「だって明らかに、やばい雰囲気じゃないですか。そこの薬とかずっと笑顔の所とか」 「お、そこ触れるのか。こんなに早く直球で触れてきたのはお前が初めてだよ」  やはり顔は笑ったままそう言うので、唐突にナイフなどで刺してきそうな不敵な雰囲気を感じ、少し身震いをしてしまった。 「まず初めに断っとくけどな、この錠剤はドーパミンを無理矢理分泌させる薬だ」 「は?」 「ただ、副作用が強いから一日一回しか飲めねえけどな。でも、薬は一日中効くわけじゃねえからその間は自分でドーパミンを出さなきゃいけねえんだよ」 「待って、まず何でドーパミンを出す必要が?」 「何でって、そりゃ死ぬからだろ」 「え?」  かつて経験のない会話の噛み合わなさに俺は笑顔の宇宙人と会話している気分になる。もし本物が地球とコンタクトを取る時も、この様な笑顔なのだろうか。 「だから、死ぬんだって。俺は病気なの。しかもかなり特殊なやつな。一日に一定の基準値のドーパミンを出し続けねえと死ぬ。そう言うやつ」 「そんな病気聞いた事無い」 「そりゃ、特異体質だからな。俺が世界で初めて。当然治療例や治療法は無し。だから笑い続けるしかねえし、薬を飲まなきゃ生きていられねえ訳。今俺が楽しそうに見えるか?」 「顔は見えるけど、口調はちっともそう感じない」  こう言うと、笑ってはいるものの少し大戸の表情が険しくなった様に感じてしまい、そういえば敬語を使っていなかった事を思い出して背筋が寒くなった。 「正解だ。笑っていれば良い事がある、なんてのはな、白痴の偽善者くらいしか言わない言葉なんだよ。何せ、笑わなきゃ死ぬんだからな。そりゃ笑うだろ」  俺はどう返したら良いか分からず、取り敢えず笑ってみると、「何も面白くねえよ」と怒られた。
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