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 それからしばらくして、櫂斗は少しずつリハビリが始まり、退院に向けて頑張った。あれから波多野は見舞いに来る頻度は減ったものの、恋人を紹介され、一緒に来るようになる。可愛らしい恋人で、波多野とは正反対の印象だった。毎日来る亮介とも仲良くなり、病室で四人でお喋りする。 「オバサンは、あれから連絡ありました?」  波多野がいうオバサンとは、櫂斗の母親の事のようだ。櫂斗は首を横に振る。 「いえ、何も……その方がおれは楽ですけどね」  櫂斗は苦笑すると、波多野もそうですか、と苦笑する。 「けど、父親からは連絡がありました。あまりお母さんを悲しませるな、と」  ああ、と波多野は肩をすくめた。それなら連絡取らない方が良いですね、と言う。櫂斗も頷いた。  父親がどんな人物なのか覚えていないけれど、母親の味方の立場を取るなら、近付かない方が良さそうだ。  そんな他愛もない話をしながら、日々は過ぎていく。  そして少しずつ自分で動けるようになる喜びを知ると、櫂斗の回復はみるみるうちに早くなっていく。  櫂斗が退院できたのは、年が明けた頃だった。  亮介と共に自宅へ帰ると、戸締りはされていたものの、酷く散らかっていた。どうやら入院する前そのままらしい。自宅の住所は母親に聞いていて、運転免許証の本籍と一緒だったので間違いないだろうと、まっすぐ帰ってきたのだ。 「こんな散らかってたら、そりゃ鬱々とするよな」  櫂斗は苦笑して片付け始める。亮介はその様子を痛々しそうに見ながら、手伝ってくれた。  あらかた片付けて時計を見ると、もう夕方になっていた。外はもう日が落ちていて、季節が巡るのは早いな、と思う。 「そう言えば、今日は一日付き合ってくれたけど、仕事は大丈夫なのか?」  櫂斗が聞くと、亮介はそれなんだが、と話し始める。 「俺、真洋の事務所の専属になったんだ。事情を話したら、しばらくパソコン一台でできる仕事だけにしてもらった。今まで社長がホームページ作ってたみたいだし……」  俺はそっちもできるから、と彼は微笑んだ。真洋とは有名なアーティストらしいが、櫂斗は覚えていなかった。以前は知っている素振りだったぞ、と言われて、そうなんだ、と相槌を打つ。  亮介がパソコンに詳しいのは亮介本人が話してくれて、今の仕事を高校生の時からやっていたと聞いた時はびっくりした。 「すごくホワイト企業だな……」  櫂斗がそう言うと、亮介の表情は苦笑に変わる。 「その代わり、求められるものはものすごく高いけどな。やりがいあるよ、本当に」  それでも満足そうなのは、本当に仕事が楽しいのだろう。けど、ちょっと待てよ、と櫂斗はある事に気付く。 「事情を話したって……どう話したの?」  まさか全部正直に話した訳じゃないだろう、と櫂斗は思う。身内ならともかく、ただの恋人、しかも同性の恋人など、理解されるはずがない。 「ん? そのままだけど?」 「だから、そのままって?」 「好きな人が酷い怪我をして入院したから、長時間拘束される仕事はできないって」  櫂斗は息を詰めた。その話ぶりだと、櫂斗が入院した頃ではないのか。 「そ、それって結構前の事……」 「ああ。そのうち彼氏にする予定ですとも言ったかな?」  ケロッとして言う亮介に、櫂斗はがっくり肩を落とす。 「何でそんなオープンなの……?」  櫂斗からすれば、亮介は葛藤したりしなかったのだろうか、と不思議でならない。 「さあ? 俺がゲイだと知って、うろたえる姿を見るのが好きだからじゃないのか?」  亮介は笑いながら言う。彼は時々、人をからかうような言動をすることがある。櫂斗に対しても例外ではなく、しかしそれが嫌じゃないから厄介だ。 「社長は何て?」 「あっそ、って言って次の瞬間には仕事の調節してた」 「……」  という事は、社長は普通に受け入れたらしい。珍しい人もいるもんだ、と櫂斗は思った。 「とにかく、仕事の心配はしなくていい。櫂斗も塾には戻れるんだろ?」  櫂斗は苦笑する。 「塾長との面接次第だけどね」 「そうか」  そう言って、亮介は櫂斗に抱きついてきた。記憶を失くしてから、そういう接触はほとんど無かったので櫂斗はドギマギする。 「りょ、亮介?」  一気に緊張して、櫂斗は離れようと身体をよじるけれど、亮介は逃がしてくれなかった。それどころか顔を上げさせられて、唇に吸い付かれる。  一度吸い付いた唇は少し離れ、櫂斗が嫌がっていないことを知ると、また吸い付いてくる。 「やっぱり、ぷるぷるの良い唇……」  唇が離れた合間にそんな事を言われ、恥ずかしくなる。亮介の身体を離そうと腕に力を入れると、彼は大人しく離れてくれた。 「……あの、夕飯先に食べない?」  櫂斗は視線を落として言った。恥ずかしくて顔を見られない。  医者にはまだ無理をするなと言われている。櫂斗は嫌じゃないけれど、そういう接触はもう少し先の話だと思っていたのだ。 「……戸惑っている櫂斗も良いな」  そう言って頭を撫でられた。 「『も』ってどういう事?」  髪の毛を乱されて口を尖らせながら手ぐしで直すと、亮介は機嫌良く「食べに行くか」と玄関へ向かう。スルーするのか、と言ったら、「全部可愛いって事だ」と笑った。  その言葉に、櫂斗はドキッとした。こうやって人をからかって、笑うから人が悪いと思う。けれど櫂斗は許してしまうのだ。  外へ出ると、刺すような空気が櫂斗を包んだ。寒くて思わずポケットに手を突っ込むと、右鎖骨の辺りがキシキシと痛む。  リハビリのおかげか、肩があまり上がらない以外は、ほとんど違和感が無いように動けるけれど、天候や体調によって痛む事があるので、無理は禁物だ。 「痛むのか?」 「……うん」 「今日は特に冷えるからな……外に出ない方が良かったか?」 「って言っても食材買うのに、どの道出ないといけないから」 「そんなの、俺が買ってくるのに」 『大丈夫か?』  ふと、櫂斗の脳裏にスマホの画面のその文字が浮かんだ。何の脈絡もないように思えたけれど、多分亮介が櫂斗を心配したシーンなのだろう、と思う。 「亮介……おれの記憶が失くなる前、スマホで『大丈夫か?』って送った事、ある?」  あまり良い思い出じゃないと分かっていながら、櫂斗は亮介に聞く。亮介との過去を思い出したい自分と、嫌な過去ならこのまま忘れていたいと言う自分がいる。 「うーん……どうだったかな」  あったかもな、と曖昧に答えられ、櫂斗は腑に落ちなかった。  あんまり良い記憶じゃないって言っただろ、と亮介はため息をつく。けれど一部だけだし、それだけじゃ良いか悪いか判断はできない、と櫂斗は折れなかった。 「……櫂斗が体調崩したみたいだったから、それに対して送っただけだ」  これで満足か? と亮介に聞かれ、櫂斗は別に隠すことでもなかったじゃないか、と口を尖らせた。  その後、ファミレスで適当に食事を摂り、櫂斗は自宅まで送ってもらって亮介は家に帰って行った。  ソファーに座って落ち着いたところで、あれ、と思う。  亮介は櫂斗に手を出そうとしていたのに、泊まることなく帰って行ったのだ。少し寂しいなと思って、すぐにその考えを打ち消す。  一人でいる事が寂しいだけであって、亮介に抱かれなかった事が残念だということではない、と櫂斗は浴室に入りシャワーを浴びる。冬なのでお湯に浸かりたかったけれど、もう寝てしまいたかった。  ベッドに入ると、すぐにウトウトと意識が揺らいでいく。 『お前ホント最低だ!』  ふと、自分が誰かに向かって叫んでいるのがフラッシュバックした。ハッとして目を開けると、そこは寝る前の景色と変わらない。  心臓が痛いほど早く動いている。その鼓動に、櫂斗は落ち着け、と自分に念じた。  脂汗が出て気持ち悪い、と額を拭う。  今のは誰に向かって言ったのだろう?  当時の感情もよみがえり、苦しくなる。まさか、亮介に対してでは、とよぎって頭を振って考えを打ち消した。  当時は亮介の事をどう思っていたのかは、憶測でしか分からない。けれど、今の櫂斗は今の亮介を受け入れたはずだ。 「……なんか、落ち着かないな」  櫂斗は起き上がり、リビングのソファーに座る。こんな事ならずっと入院していても良かったかもしれない。  櫂斗はそのままそこに寝転がった。すると、さっきまで落ち着かなかったのが嘘だったかのように眠たくなる。 (ここで寝たら風邪ひく……)  そう思うけれど、櫂斗はもう指一本も動かせなかった。
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