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 六月の夕方。今にも降り出しそうな空の下、堀内櫂斗(ほりうちかいと)は駅のホームで電車が来るのを待っていた。帰宅ラッシュとあって、ホームは人でいっぱいだ。ムシムシする気温の中、これから満員電車に乗る人たちは、仕事の疲れもあってかうんざりしているように見える。  せめて湿気さえ無ければなぁ、と櫂斗はスマホを取り出した。まとわりつく空気が鬱陶しい。 (今日はグレーのスラックスと、白とグリーンの細ストライプのワイシャツ、黒のショルダーバッグです……と)  自分の服装と文字を見比べて、間違いがないか確認する。そしてそれを掲示板にアップした。  すると櫂斗は歩みを進める。目的は一番前の車両の昇降口だ。  湿った空気が櫂斗の髪を撫でる。髪の量が多いので、湿気があると大きく広がる髪の毛を、櫂斗はうっとおしく思って手ぐしで梳いた。若干タレ目の櫂斗の眉間に皺が寄る。ぽってりした唇を尖らせると、そろそろ髪切るか、と独り言を呟いた。  櫂斗は腕時計を見る。仕事柄、割と重要なアイテムなので、着け心地重視で選んだ物だ。  すると電車がホームへ滑り込んできた。人の波が一斉に動き、櫂斗もそれに揉まれながら電車に乗り込む。  電車の中は更に湿気があって、それだけで息苦しいのに、さらに狭い空間にすし詰め状態になり、櫂斗は小さく呻いた。これから三十分、この状態に耐えなければならない。  二駅ほど通過した時、櫂斗は身に覚えのある感覚に息を詰めた。 (来た)  櫂斗は前に抱えたショルダーバッグを握る。  多分手の甲だろう、当たっているのかいないのかくらいの力加減で、誰かが櫂斗のお尻を触っているのだ。 (だめだめ、耐えろ……)  ここで騒いで、男が痴漢されているなんて知られるのは嫌だ。さらに、櫂斗にはこの事を知られたくない事情があった。  櫂斗は、自ら望んでこの状況を楽しんでいるのだ。  見つかるかもしれないというスリルと、こんな所で感じている自分の変態性に興奮する性癖があり、先程掲示板に投稿したのは、ゲイ向け痴漢専用の掲示板だ。  櫂斗はぎゅっと唇を噛む。お尻の手が、次第に大胆さを増していった。狭間を上下に擦るように撫でられたり、太ももの付け根のラインを撫でられたりして、櫂斗はぎゅっとショルダーバッグを抱え直す。 (焦れったい……けど、それがいい)  櫂斗の額にじわりと汗が浮かんだ。興奮するのを我慢するのも快感で、よがってしまう身体を何とか持ち直す。  櫂斗はそろそろと長く息を吐いた。まだまだ先は長い、早々と声を上げてしまっては、せっかく痴漢相手を募った意味が無い。  電車が次の駅に到着する。この駅は乗り換えする人が多く、人が多く出入りするため、櫂斗はドア付近から離れようとした。 「ちょっと、何ですかっ?」  真後ろにいた男が声を上げた。見ると、櫂斗と同じく会社員らしい格好をした男性が、手首を掴まれている。 「あなた今、痴漢してましたよね? この駅で降りてもらいます……大丈夫ですか?」  前半は手首を掴んだ男に、後半は櫂斗に向けて言ったのは、黒縁メガネをした、いかにもインテリ系の男だった。  直後に開いたドアに、眼鏡の男に背中を押され、ホームへ出る。 (くそ、見つかるようにやるんじゃねーよ)  櫂斗は心の中で悪態をつく。すると、手首を掴まれていた男は、それを振りほどいて走り出した。 「あ! おい!」  眼鏡の男も追いかけようとするけれど、櫂斗が気になったのかすぐに諦めた。顔を覗かれ視線を逸らすと、「すみません、逃げられてしまいました」と困った顔をする。 (ってか、イケメンだなこの人……)  薄い唇にスッキリした真っ直ぐな鼻梁、眼鏡の奥の瞳は奥二重で、強い意志を感じさせる目力を持っていた。 「あの、男に痴漢されるとかショックですよね……」  彼は櫂斗が黙っているのを、ショックを受けていると勘違いしたらしい、それで本来の目的が頓挫した事を思い出した櫂斗は、彼の胸ぐらを掴んだ。背がそれなりに高い彼は、よろけて前かがみになる。 「……いい所だったのに邪魔すんじゃねぇよ」  正直、痴漢相手が逃げてくれて助かった。あのまま警察にでも突き出されていたら、櫂斗が誘ったとバレてしまうからだ。それを思えば、今目の前にいる男だけにバレるなら、どうって事ない。 「……え?」  案の定、彼は驚いた顔をした。櫂斗は挑むような顔を彼に向ける。 「どう責任取ってくれるんだよ? あんたが相手してくれんのか?」  どうせ断るに決まっている。櫂斗は手を離し、そっぽを向いて次の電車を待った。 (分かったならさっさとどっか行けよ)  そう思っていると、彼からは思いも寄らない言葉が出てくる。 「それは悪かったな。じゃ、お望み通り責任取るから、こっちに来いよ」 「は? ちょ……っ」  彼は櫂斗の手首を掴むと思いの外強い力で引いた。予想外の彼の行動に、櫂斗は慌てる。 「ちょっと待て、オレ仕事が……っ」  グイグイ引っ張られる手首が痛くて抵抗するけれど、彼は構わずホームを出ていこうとした。 「責任取れって言ったのはそっちだろ? それとも、ポーズでしたとか無責任な事を言うのか?」 「……っ!」  櫂斗は図星を指されてカッと顔が熱くなる。まさか櫂斗の言葉に彼が乗ってくるとは思わなかったのだ。そして強引に事を進めようとする彼に、少し恐怖を抱いた。 「わ、悪かったって!」  櫂斗が声を上げると、彼は手首を掴んだまま止まった。すると駅員が数人、こちらに向かって来るのが見える。他の誰かが痴漢を通報したのか、二人の騒ぎを見て通報したのか分からないけれど、厄介な事になるのは確かだ。  櫂斗は思い切り腕を振り上げた。すると彼の手が離れたので、全速力で逃げる。  ちょうど次の電車が来たのでそれに乗り込んだ。彼が近付いてくる気配は無かったのでホッとして、長く息を吐く。  仕事前にめんどくさい事があったな、と櫂斗は湿気の多い空気にため息をついた。
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