覚醒

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覚醒

オレンジ色の滑り台をひたすら降る。 ほら、あれ。リゾートプールにある、くねくねしたやつ。 いつまで経ってもプールの水面は見えない。どんどんスピードを上げて、私の身体は落ちて行く。 ふわっ!! 突然、男の人の低い声が鳴り響いた。それも複数人いる。だんだん視界が開け、暗闇の中で焚き火を囲み、お経を上げるお坊さんたちの姿が顕になる。 そのぴったりに揃えられた読経は耳にうるさく、心をざわつかせた。 あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ" 少しづつ眼の中に光が差し込んで… 私は、覚醒、した! ごめん、普通に目が覚めました。 人工呼吸の太い管をねじ込まれ、点滴に繋がれた状態に気がついたころ、看護師さんがカーテンを開けてベッド際へ。 目が覚められましたか? 声が出せないので、首を縦に振って応答する。 もうこんなことしちゃダメですよ? あ、私…生きてるんだ。 少し待っていてくださいと言葉を残し、一旦、看護師さんはカーテンの向こうに姿を消した。 しばらくすると、お医者さんらしき人が看護師さんを伴って現れ、ドラマとかでよく見るやつ… ペンライトの光を私の瞳の奥に照らしてきた。 僕の手を握ってくださーい。 これなんぞ? とりあえず安定してるかな? じゃあ、人工呼吸器外しましょうか。一気に引き抜くんですけど、結構太いんで声帯を傷つける可能性もありますよ? えええ! 私、声が可愛いねって言われるの、ちょっと自慢だったのになあ。しゃあない、もしもの時はハスキーボイスの新しい自分で、頑張って生きていこう。 そして、それは本当に、力いっぱいに。 ズルルル!と咽喉の奥から呼吸器が抜かれていく感覚が気持ち悪い。結局、喉に痛みはなかった。 今まで音楽が好きで歌唱指導を受けてきたおかげで、声帯の開き方は十分に学んでいたから…か。 後で先生に話を聞いたけど… ああ、そんな薬を大量に飲んだからって死ねるはずないよ?血がサラサラになるだけだから? って。私は何やっとんじゃい。 まだまだ、頭の中にはモヤがかかっているみたい。 そんな中で、空想の世界では色々な景色が浮かんでくるのだった。 古代文明の都市らしき、複雑だけど整頓された街並み。 大きな樹の太い根っこの合間から生まれる少女。 これをアウトプットせずにはいられない。湧き上がる創造力。 早速看護師さんにお願いして、何か書くものを用意してもらった。綺麗に削られた鉛筆の先は、思った通りとめどなく動いてくれるのだった。 上手に表現できたわけでもないけど、心の中だけで渦を巻いていたモヤモヤが、誰にも伝わる形で目の前に存在することが、私に落ち着きを与えてくれた。 ここICUには特別なルールがある。 目の前の通路をストレッチャーが通る時は、カーテンが引かれる。 そして、強い口調で看護師さんが、 目を瞑って?と。それはもう、2日目にもなると意味は明らかだった。 泣きながら、誰かの名前を呼ぶ付き添いの人間たち。時には、チーン!と、仏教の鈴を鳴らしながら、左から右へとゆっくり運ばれる者もいる。 そして、そういう状況下に自分もいるのだと、改めて身震いをするのだった。 なんとか、点滴のスタンドを頼りに洗面所まで歩けるようになった頃には、お隣のベッドの方とのカーテンも開放されることが多くなった。 お隣のおばさんは明るく、快活な人物だったが… もしかして貴女も?私もね…でも今回もダメだったわあ。 世の中には、同じような境遇の人間も多い。 そして、ここではじめて知ったのだけど、どうやら自分は全く何処の病院に運ばれたのかがわかっていなかった。 救急車で高速道路を突っ走って2時間ほどか、隣県の特別な設備のある病院に担ぎ込まれていた。 もう、近隣には処置できる病院はなかったらしい。 退院の日。 お医者さんからは まだ肺炎の症状が残っていますので、安静にしてください。と、念を押された。 ここの救急は、どうやら一命を取り留められたら、肺炎程度なら再入院して治療するというプロセスはとってくれないらしい。 ましてや、精神科なんかの紹介も特になかった。んー、救急ってこんな感じなんだねえ。 さてさて、お先に退院する私は、お隣さんと、もう絶対にやらないようにしようね?生きてまた会いましょうね? と、約束を交わして病室を後にする。 携帯電話に連絡など入っていないだろうか。 開いてみると、そこにはおびただしい数の着信履歴が…商談を共にするはずだった先輩からが殆どだった。 そりゃその筈だわ…と思いながら先輩に電話を掛け直す。 電話が繋がった瞬間、男性の怒鳴り声が鳴り響いた。 もちろん相手は先輩なんだけど、こんなに大声を上げる先輩を、私は知らない。 責任を取れ!こんなことしやがって!何が大人だ!お前は大人じゃない!大人として責任を取れ! 言っていることの殆どは間違いがなく、私がしでかした事だ。 だけれども、まず男性にこんなに一方的に怒鳴られたら怖い。ほんとに怖い。 そして、何があって休んでしまったのかも、一言も説明させてもらえない。私が喋ろうとすると、全て大声でかき消されるのだ。 行き止まり。煉獄とはこのことか。 もちろん自分が一方的に悪くて、謝罪とそして償いと、他に道がないのはわかっている。 だけども、こんなに怒鳴られ続けるとやっぱり辛いよ。 その後、どうやって自宅に帰ったかは、全く記憶がない。
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