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3、眠らされた血筋
藏の中は暗く、全身が凍えるようだ。しかし足まで酷く震えるのは、夜の冷え込みだけが理由ではない。
コウタは肌に冷たいものを感じるとともに、鼻をつく臭いに困惑した。強烈な腐敗臭には目がくらむ想いだ。それは理科室の薬品とは異なり、硫黄臭さとも違う、完全に未知なる感覚である。
「親父、何やってんだよ」
やはりトシアキは答えない。手元で擦れるワラの方が、よほど饒舌だった。
「トシアキおじさん。それってもしかして……」
ツムギが指摘しようとするのを、トシアキは掌を向けて止めた。
「皆まで言うな。お察しの通り、ご禁制の代物だよ」
「何か理由があるんですか? もしこんな所を、他の人に見られちゃったら……」
「分かってる。間違いなく収容所に送られ、厳しい『再教育』を施されるだろう」
トシアキは片隅に眼を向けた。古い藏である。しっくい壁には、彼が幼い頃に付けた傷が、今もありありと残されていた。
「さっき昔話をしたろう。懐かしさから、つい、堪えがきかなくてな」
トシアキが瞳に優しい色を浮かべたのは、ほんの一時だった。やがてコウタの方を見据えると、その場で膝を着いては背筋を伸ばした。腹をくくった瞬間である。
「手前勝手な振る舞いで、迷惑をかけてしまった。だからせめて、お前の手で通報してくれ。そうすれば、罪は私だけに留められる。お前は明日からも、いつも通りに暮らせるはずだ」
白洲の侍にも似た佇まいだ。白装束を渡せば腹を切りかねない、そんな気迫が感じられた。
コウタは無言のまま、父の側へと歩み寄った。そして膝を折っては、まだ衰えを知らない肩を叩く。力強くも親愛籠もる仕草で。
「オレにも食わせてくれよ、親父」
「コウタ! お前、正気なのか!? いくら未成年でも名産品摂取の罪は免れないぞ!」
「分かってる。それでも食ってみたい。母さんも好きだったんだろ?」
「その通りだ。母さんは、万菜(まな)は、特に納豆が大好きでな。食べ方にも強いこだわりがあったものだよ。醤油をかける事を好んでいたな」
「家族でオレだけ食ったこと無いとか、有り得んし。だから食わせろよ」
「待て。ここは一度冷静になってだな」
「いただきます」
父が止めるのも聞かず、コウタはワラを奪い取り、一口だけ頬張った。間もなく口中には強烈な臭いと、粘膜を覆い尽くす粘り気が押し寄せてきた。遅れて粘性の強い塩っ気が、味覚の全てを掌握する。
凄まじい衝撃だ。コウタは頭を殴られたような感覚にためらい、その場で壁にもたれかかった。
「コウタ君……。味は、どんな感じ?」
「う、ウゥ……!」
コウタは答えない。いや、答えることが出来ない。
ご禁制とは言えど、立派な食品だ。それこそ、かつての茨城では毎日のように食され、愛され続けた一品である。
しかしコウタの身体は謎の反応を示した。ほんの一口含んだだけで、全身が震えて、腹の底が耐え難いほど熱くなる。まるでマグマでも飲み込んだかのようで、身動きすらままならない。
「ねぇコウタ君、大丈夫!? お水持ってこようか?」
「か、身体が……!」
「身体がどうかしたの!?」
「熱い……熱くて燃えちまいそうだ……ッ!!」
コウタは両手で頭を押さえては、辺りを転がった。もはや拒絶のようにしか見えなかったのだが、事態はさらに急変する。
耐えかねたコウタが叫んだ。腹の底から、喉が割れん程に。
すると絶叫は、衝撃波をともない、付近を駆け抜けた。その衝撃でトシアキの前髪がハラリと落ち、ツムギのスカートも大きく揺れた。
「ハァ、ハァ……何だ今の?」
「ねぇコウタくん、一体どうしちゃったの?」
「自分でもわかんねぇよ。ただ何つうか、腹の奥底から、すげぇのが出てきた」
「おじさん。今のって、どういう事か分かります?」
トシアキは問いかけられても、口がきけずにいた。両目を見開き、唇も激しくわななく。掠れた声を放り出すまでに、いくらかの時を必要とした。
「今のはもしや、伝説として語り継がれるミトッポの力では……?」
「ミトッポ? 何ですかそれ」
「そうか。やはりマナの血か。そして、母さんの方が正しかったという事なのか。こうなったらウカウカしていられない。まずは宍戸さんに連絡を……」
「親父。さっきから何をブツブツ言ってんだ。分かるように説明してくれよ」
トシアキは聴こえていないのか、延々と独り言を繰り返す。それから、ようやく立ち上がろうとした、その時だ。
蔵の入り口がビームライトに照らされ、無機質な光に染まる。光は宙空からで、ドローンの飛行音も耳に届いた。
「警告。警告。特一級名産の使用・所持の疑い有り。抵抗せず、大人しく縛につくこと。繰り返す。特一級名産の……」
「ヤベェ! ドローンに見つかったぞ!」
「コウタ、退がりなさい!」
トシアキはコウタを押しのけ、眼前で滞空するドローンに掴みかかる。するとドローンが捕捉モードに入り、自動防御機能を作動させた。鋼鉄製の縄がドローンの背後から飛び出し、トシアキの身体に巻き付いた。
その縄は、うっかり怪我をさせないよう、柔らかなゴムでコーティングされた安全仕様。捕縛された者は窮屈な程度で済むという、人道的な兵器である。
無論、トシアキは全力をもって抵抗した。しかしそうまでしても、膠着状態に持ち込むのがやっとである。
「親父、大丈夫か! 今助けてやるぞ!」
「いや、私はここに留まる。お前たちは2人とも落ち延びるんだ。ツムギちゃんの家まで急げ、必ずや力になってくれる!」
「フザけんなよ! 格好つけてる場合かよ!?」
「聞けコウタ! お前には、比類なき英雄の血が流れている。いずれ、途轍もなく強くなるんだ。それこそ東京など打ち倒せる程に」
「オレが……? 嘘だろ?」
「だが今は闘うべき時ではない! 力を蓄えて時を待て。そうすれば、必ず、茨城を取り戻せる程の強さを……! グヌヌ……!」
ドローンが締め付けを強めた。トシアキの抵抗も、もはや長くはないだろう。
「だからって親父を置いていけるかよ、一緒に逃げんだよ!」
「私に構うな! ボヤボヤしてるうちに、ツムギちゃんまで巻き添えにしてしまうんだぞ!」
「あっ……!」
コウタはここでようやく背後に眼を向けた。そこには、涙目になりつつ震える幼馴染の姿がある。
「コウタ君、どうしよう。おじさんが……!」
やがて、遠くから人の気配が伝わってきた。エンパイア軍の治安部隊が、自転車に乗って押し寄せる音だった。
もはや、この場に留まるだけでさえ危険である。
「チクショウ……チクショウ! 絶対に死ぬんじゃねぇぞ親父! 後で助けに行くから、それまでくたばるなよ!」
「ハハッ。息子に心配されるほど、老いては居ないさ」
コウタは後悔を振り払う想いで、その場から駆け去った。ツムギの手を握りしめながら、裏口から路地裏へ。
1人残されたトシアキは、密やかに微笑んだ。
「それで良いんだ、コウタ。任せたからな。茨城の未来は、お前の両肩に……」
そこでドローンが気配を変えた。今度はチューブを露出させ、トシアキの口に無理やり突っ込んだ。
エンパイヤ軍が誇る技術力の結晶とも呼ぶべき、恐ろしき液体兵器が、チューブ越しに注がれるのだ。
「これまでか……ウゴゴ、ゴボゴボ……!」
注がれたのは一ツ星シェフ監修の、こだわり山菜ミネストローネ。競争の激しい都会で、磨きに磨かれた傑作である。奥行きのある味わいが、トシアキの味覚に猛烈なダイレクトアタックを仕掛ける。
それはまさに天にも昇るほどの美味。うかつに気を緩めたら最後で、もう茨城なんてどうでも良いやと、郷土愛をスルッと手放してしまいそうになる。
トシアキは蹂躙される味覚と、比類なき快感により、あわや洗脳の危機に陥る。しかし彼の瞳には、確固たる意志の光が残されていた。
「頼むぞコウタ。必ずや、エンパイヤ共に、正義の鉄槌を。そして願わくば、茨城を好感度ランキングの、トップ10入りへと導いてくれ……ッ!!」
そこまで呟くと、気を失い、力なく項垂れた。抵抗する両手も、今や意志なき肉塊である。
「付近の治安部隊へ。違反者を捕捉完了。速やかに収容所へと移送するように。繰り返す。付近の治安部隊へ――」
間もなく、エンパイヤの兵士が蔵に殺到した。
こうしてトシアキは捕縛されてしまったのだが、彼の狙いは達成された。息子たちを、茨城の未来を担う2人を逃がす事に成功したのである。
速やかに脱出したコウタ達は、辛くも窮地から脱した。しかし、まだ安全圏まで遠い。治安部隊の捜索は続いているのだ。
ブロック塀の影に身を潜めた2人は、首だけ伸ばして様子を窺ってみる。普段からは考えもつかないほど、付近は騒がしかった。
「コウタ君、様子はどう?」
「ダメだ。大街道は巡回ドローンばかりだ。治安部隊も普段よりずっと多い」
どこを向いてもエンパイヤ。数人一組の自転車部隊が頻繁に往来し、ドローンの羽音も耳にうるさい程だ。
「どうしよう。これじゃあ、そのうち見つかっちゃう」
「ともかくお前んちに行ってみよう。裏路地を回るぞ」
「うん、分かった」
新原三差路から路地裏に逃げ込む。それからは雑木林に突っ込んだ。雑草の生い茂る獣道に身を隠しつつ、時には足を止めて警戒し、道なき道を行く。
2人にとって慣れた道で、周辺は庭のようなものだ。見回りの眼を盗んで逃げ回ることは、それ程難しくなかった。
やがて朽ちかけた鳥居を潜り、参道を駆ける。すると、正面の拝殿に佇む人物を見つけた。白衣に緋袴(ひばかま)を着込む女性。その人影に向けて、ツムギは声をあげた。
「お母さん!」
「あらツムギ、それにコウちゃんも。今日はお泊まりじゃなかったの?」
「ハァ、ハァ。それが、大変な事になってて……」
「どうしたの、そんなに息を切らしちゃって。まぁ。つまりはアレね」
ツムギの母、美春(ミハル)は鷹揚に頷くと、人差し指を立てながら諭した。その声はどこか、幼子に言い聞かせるような響きである。
「可愛い下着が必要なのね? ツムギったら、お泊りセットを取りに来ないから、割と心配してたけど」
「違っ、そうじゃない! とにかく話を聞いて!」
ツムギの悲痛な声は、母の関心を惹いただけでは無かった。参道の向こうで怒声が鳴り響く。治安部隊の小隊が騒ぐ声に気づき、駆け寄ってきたのだ。
「あっ、どうしよう! 見つかっちゃった!」
「何やら緊急事態のようね。2人とも、一度中へ入りなさい」
「中にって、兵隊さんに捕まっちゃうよ!?」
「この場はお父さんに任せましょ。アナタ、しばらくお願いね?」
ミハルが声をあげると、本殿から人影が飛び出した。そして軽い足取りで着地しては、「任されよう」と快諾した。神主姿。ツムギの父親である。
「これで落ち着いて話が出来るわ。一体何があったの?」
場所を移して社務所の中。ドアの向こうからは、参道で激戦を繰り広げる物音が、ひっきりなしに聞こえてくる。
コウタは、外の様子を気にかけつつも、今日の出来事をつぶさに語った。
「なるほどね。うんうん。まずはお礼を言わせて頂戴。ツムギを汚らわしい男から守ってくれてありがとう、コウちゃん」
「いや、オレは、当然の事をしただけだし……」
「そして佐竹さんは、あなたに全てを託された。いよいよこの日が訪れてしまったのね」
「おばさん、何か知ってんのか!?」
「ごめんなさいね。あなた達2人には、平凡な人生を歩ませてあげたかった。でも時代がそれを許してくれない。茨城は今、あなた達の力を必要としているの」
力強く語るミハルの瞳には、どこか寂しげである。
その瞳を眺めるうち、コウタは確信する。もう昨日と同じ日は、2度と訪れないのだと。自分の人生は既に、大きく変質してしまったのだと。
そんな予感を、困惑とともに飲み込んだ。
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