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カナコの不安は、思ってもみなかったところにあった。ミナトは思わず吹き出してしまうと、またカナコは恥ずかしそうに目線を下げてしまった。
「あぁ、ごめんね。大丈夫、僕は人間だよ。妖怪はネコだけ。君の名前を教えてもらってもいいかな?」
「……カナコです。二年生です」
「よろしくね、カナコちゃん」
「あの、私みたいなのが来てもいいんですか? 多分、つまらない相談事だと思うし。張り合いもないっていうか」
ミナトは指を二本立てる。
「放課後猫又相談倶楽部規則、第二条。相談倶楽部は来るモノ拒まず。僕たちはどんな相手からだって話を聞くよ」
「他の人に、私のことがバレちゃったりとか」
カナコの不安は次から次へとわいてきてキリがない。今度はネコが口を開く。
「心配しなくていい。放課後猫又相談倶楽部規則、第三条。個人情報保護の徹底」
「僕たち相談員は、相談から知り得た悩みや秘密は、たとえ相手が親でも教師でも親友でも、絶対に誰にも漏らしてはならない。だから、安心して」
俯き、唇を噛むカナコ。この人に話をしても大丈夫かもしれないという安心感と、知り合ったばかりなのに心を許してはいけないという不信感。それぞれが心の中で、同じくらいの大きさで存在している。自分の悩みを相談して、呆れられてしまうならまだいい。笑われてしまったらどうしよう。ためらっている間、気づかないうちにネコが目の前にやって来た。カナコの顔を覗き込み、卵のような形の瞳と目が合う。ネコはふんふんと鼻を鳴らしている。
「何を考えているか、匂いを嗅げばわかる。大方、相談して笑われたり貶されたりしたら嫌だなぁ……というところだろう?」
言い当てられてしまって、カナコの肩がぎくりと跳ねる。
「大丈夫だよ。規則、第四条。相談員は、たとえどんな悩みであっても馬鹿にしたり笑ったりせず、相談者を尊重すること。僕たちは君の悩みが解決するまで、君の味方だから」
カナコは大きく息を吐く。彼らのことはまだ疑っている。ネコの痛いくらいの視線をシャットアウトするように強く目を閉じる。けれどその瞼の裏側には、見たくはない自分の姿が刻み込まれていた。毎朝、部屋にある姿見に映る自分の姿。制服でも隠すことができない、他の女の子よりも、目の前にいるミナトよりも大きな横幅。暗い目元、ボールみたいに丸い顔。鏡に映し出されるのは虚像ではなく、まぎれもない現実。それを振り払うように目を開ける。ネコは前足を寄り添うように差し出す。カナコはそれをぎゅっと握った。まるで藁にすがるように。けれどそれは藁よりも太くて、中は空洞じゃない。血と心が通っているとても温かな前足だった。
「……キレイになりたいです」
小さくつぶやいた後、大きな後悔がカナコを襲う。恥ずかしくって頭に血が上り、顔が熱くなっていく。やっぱり撤回しようと顔を上げた時、ネコの尻尾が大きな丸を作っていた。ずいぶん器用な尻尾だ。
「よし、分かった。大船に乗ったつもりでいてくれ」
こんな変な悩みなのに、ミナトは優しく微笑んだまま。ネコは堂々と胸を張っている。
「我々が今まで解決できなかった問題は一つもない。ただ、少しだけ時間が欲しい」
ネコの言葉にミナトも頷く。
「カナコちゃんがどうやったら【キレイ】になれるのか、まずは僕たちなりに調べてみたいんだ。いい?」
「はい。あの、よろしくお願いします」
「ある程度目途が立ったらこっちから呼ぶから、それまで待っていて」
カナコは頷く。今日はもう遅いから、とネコに帰るよう促された。席を立ち、帰ろうと引き戸に手をかける。その背中にミナトが声をかけた。
「カナコちゃん」
振り返ると、ミナトの変わらない笑顔がそこにある。
「勇気を出して相談しに来てくれてありがとう」
ありがとう、と言わなければいけないのはこっちの方なのに。カナコは小さく頭を下げて理科実験室を後にする。音を立てないように戸を閉めて、大きく息を吐いた。先ほどまでガチガチに固まっていた体が、すんなりと解れていく気がした。ミナトの最後の言葉が耳に残る。なんだかくすぐったくて、カナコは自分の耳に何度も触れる。緊張したけれど、行ってよかったかもしれない。理科実験室の引き戸の隙間から漏れている暖かな光は遠ざかっていく。悩みを打ち明けただけで、カナコの身に何か大きな変化が起きたわけじゃない。けれど、気持ちが少しだけ前を向いたような気がした。
理科実験室に残ったミナトとネコは、これからの方針について話し合っていた。大船に乗ったつもりで~なんて言ったけれど、二人には一人の女の子を【キレイ】にするノウハウは持ち合わせていない。
「まずはいつも通り分担しようか」
悩み解決の基本は、まず相手のことをよく知ること。それこそが、ミナトがこの一年相談倶楽部の部長として培ってきた解決のコツ。
「ネコはカナコちゃんについてちょっと調べてみてくれる?」
忍び足で歩くのとこっそりと隠れることが得意なネコにミナトが指示を出すと、ネコは尻尾で再び丸を作る。相変わらず、器用でとても頼もしい尻尾だ。
「僕は【キレイ】になる方法を探してみるから」
「わかった。けど、受験のほうは大丈夫か?」
ミナトはネコにブイサインを見せる。心配してくれた事への感謝と自信をそれぞれの指に込める。ネコにはすぐに伝わったみたいで、ふふんと鼻を鳴らした。
何か気づいたことがあればすぐに知らせると伝えると、ネコは窓から出ていった。誰もいなくなった理科実験室を見渡し、気を引き締めるように背筋を伸ばした。これがきっと、原っぱ中での最後の【相談事】になるに違いない。ミナトは相談倶楽部規則・第五条を口にする。
「相談員は悩み事が解決できるように尽力する……よし」
そして喝を入れるみたいに、自分の頬を強く叩いた。
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