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下を向き、まるでうなるような息を漏らすカナコ。少し間をおいてから麦茶をもう一口飲み、諦めるように肩を落とした。
「どうせ放課後暇だし……いい機会だし、やってみます。ジョギング」
「僕たちも付き合うから、安心して! でも、カナコちゃんってスタミナがすごくあるよね」
ネコを見てごらんよ、とミナトが言う。疲れ切ったネコはまだ横になった間。胸は大きく膨らんだかと思えば一気にしぼんでいった。ネコは目線だけをミナトに向ける。
「だって、カナコはつい最近までバスケ部に入っていたんだから。私たちよりも体力あるに決まっているだろう」
カナコはぎょっと目を丸める。どうしてこの猫又はそんなことを知っているのだろう? 私、話したかな? いや、絶対に話してない。
「そうだったんだ。そういえばうちのクラスにも女子バスケ部の子がいた気がするなぁ。カナコちゃん、バスケ部はやめちゃったの?」
ミナトは考えなしにそう口を開いた瞬間、カナコの横顔が一気に青くなっていった。まるで頭から冷たい水をかけたみたいに唇も色を失っていく。カナコはネコとミナトから視線をそらすように俯き、真っ白になった唇を震わせる。先ほどまでの少し落ち込んでいるような様子とも違う。怯えているのだろうか? でも、何に? ネコとミナトは目を合わせる。
カナコにとって【バスケ部】の話は、誰にも開けて欲しくないパンドラの箱であることはその様子を見ただけですぐに分かった。けれど、どうしてだろう? ふっと湧き出す疑問。もしかしたら、カナコの悩みの根っこにあるのは【キレイになりたい】という願望ではないのかもしれないとミナトは思った。でも、今カナコが本当に悩んでいることを聞いても、彼女は答えてくれないだろう。怯えているカナコを見る。自分だったら、ここまで震えてしまうくらい嫌な話なんて他の人にできない。
「今日はもう帰ろうか、カナコちゃん」
ひとまず、今日はもう切り上げることにした。カナコを家まで送ろうとしたけれど、彼女は「大丈夫です」と、小さな声だったけれど確実にミナトを突き放す。ミナトはカナコの心に踏み込みたくなるのを堪えて、小さく手を振って帰路につくカナコを見送る。ネコも、自分が放った何気ない言葉のせいでカナコが元気を失くしたことに責任を感じているのか何も話さない。
「ねえ、ネコ。僕もちょっとカナコちゃんのこと、調べることにするよ」
遠ざかっていくカナコの背中を、ミナトはじっと見つめていた。
「その代わり、ネコはカナコちゃんに寄り添ってあげて」
「わかった。頼んだぞ、ミナト」
***
家族に気づかれないように、カナコはそっと家のドアを開ける。部活に行っていないことは、家族は知らない。余計な心配はかけたくないから言っていない。もしバレても「勉強に集中したいから」って言っておけば、きっと大丈夫。でも……。カナコは静かに自分の部屋入って、置きっぱなしのバスケットボールを見た。部活がない日に自主練をするために買ってもらったボールは、姿見の横でまるで首をかしげているように転がっている。それに手を伸ばして指先が触れた時、何かが刺さったかのように胸が痛んだ。もしかしたらそれは、他の人から見たらとても小さく細い棘のようなものかもしれない。けれどカナコにとっては重たくて鋭い槍みたいなもの。カナコはすぐに手を引っ込める。
もうボールすら見たくない。でも、それと同じくらいの大きさで心を占めているのが、まだバスケを辞めたくないという未練だった。悩み始めると全くベクトルが異なる二つの気持ちがそれぞれの方向に進もうとして、体が引き裂かれてしまうイメージが思い浮かぶ。いっそのこと、自分が二人になったら悩まずに済むのに。バスケを続けたい自分と、もう辞めちゃいたい自分。
小学生の時から始めて、中学に入ってからは県大会を目指してずっと練習してきた。その長い時間をなかったものにはできない。もう一度指先でツンと触れると、ボールは転がっていく。胸が感じていた痛みがほんの少しだけ小さくなったような気がした。
「ボールが悪いわけじゃないのにね」
悪いのはいったい誰なんだろう? 私だけかもしれない。今度は両手でボールを掴むと、すぐに手のひらに馴染んだ。心の矢印がバスケットボールに向かっている。カナコはそれを抱えて部屋を出た。玄関に行こうとすると、カナコのママがとても驚いた顔をしてカナコを呼び止める。
「カナちゃん、いつ帰ってたの? 全然気づかなかった」
「う、うん、ちょっと前にね」
「ちゃんとただいまって言ってよ、もう。おやつ食べる?」
ジョギングで疲れたカナコにとって、それは魅力的な言葉。でも脳裏には、一緒に走ってくれたネコとミナトの姿が浮かんできた。今ここでおやつなんて食べちゃったら、頑張ってくれたあの二人に恩をあだで返すことになってしまう。
「ううん、いらない。あの、ちょっと外で練習してくるね」
カナコはボールを抱えたまま靴を履く。
「あ、ママ。これからの晩ご飯、サラダ多めにしてほしいな」
***
数日後、ミナトは女子バスケ部の活動が行われている体育館に向かっていた。廊下の角を曲がると、彼の視線の先には見慣れた背中が見えてくる。ここ数日、ジョギングをするときに追いかけていた後ろ姿を見間違えるはずはない。
「あれって、カナコちゃんだよね……?」
背中を丸め、重たい足取りでとぼとぼと体育館に向かっている。ミナトは後をつけていることがバレないようにそっと身を隠す。でも、たとえ小柄だと言っても人が隠れることができる場所なんて廊下にはない。こっそりと身をひそめるのは、やっぱりネコの方が得意だ。
カナコは体育館に着いたけれど、その戸を開けようとしなかった。少し遠くて見えづらいけれど、カナコの横顔は真っ青なのはすぐに分かった。この前公園で、バスケ部の話を聞いたときみたいに。
カナコは迷うように、引き戸に向かって手を伸ばしては引っ込めていく。何度も肩を上下させて、たぶん深呼吸をしているに違いない。どうしてあんなに躊躇っているんだろう? ミナトのカナコに対する疑問が増えていく。身を乗り出してよくカナコの様子を見ようとしたとき、誰かがミナトのすぐ横を駆け抜けていった。
「カナコちゃん!」
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