イマジナリーヒロイン

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 現在進行形で空想上の女の子と恋をしている。  彼女には名前もなければ戸籍らしいものも存在しない。もちろん、生みの親ですらも、だ。しかし、あえて言うのであれば、戸籍は僕の頭の中であり、生みの親は僕であるとも言える。  それならば、ここで名前も決めておこう。そうだ、それならこれからは彼女のことをユメノと呼ぶことにしよう。我ながら良い名前だと思う。おかしくなってしまった自分を表現するのに、これほどまでに適切な名前は他にない。  高校時代、劇的な失恋を経験したことがあった。 生まれた瞬間は人生でもっとも壮大な恋だった。およそ十七年。それがその恋が始まってから終わるまでに流れた時間である。  桜木夢野(さくらぎゆめの)。それが、僕が恋した女の子の名前だ。夢野と僕は幼馴染なんて言葉では足りないくらい、昔からの友人同士だった。生まれた時期も生まれた場所もほとんど同じだったから、僕らは物心がつく前からずっと人生を共にしていた。  十七年という長い年月を夢野と寄り添いながら歩いてきた僕だったが、ジャネーの法則でいえばおよそ人生の半分ともいえるほどの時間を費やしても、自分の恋心に気が付くことはできなかった。いや、むしろそこまで長い時間をかけてしまったのがいけなかったのかもしれない。 僕が自分の恋心に気が付いたのは、夢野が亡くなってから数日が経過したときのことである。  夢野は高校二年生の夏、交通事故にあってこの世を去った。彼女が部活動を終え、家に帰ろうとしたときに事故は起こった。歩道をただ歩いていただけの彼女のもとに、一台のトラックが飛び込んできた。運転手の居眠りによってスピードを緩めることなどできなかったトラックは猛スピードで夢野のもとに突っ込み、彼女の体をまるで蟻を踏みつけるみたいにぺちゃんこにした。  後日、夢野の訃報を学校で聞かされた自分が我ながら不憫でならなかった。自分の知らないところで、最愛の幼馴染が亡くなったのだ。これを超える悲しみに僕は生涯をかけても出会うことはないだろう。  夢野の死後、僕の頭の中を支配したのは彼女との思い出の数々だった。彼女との十七年の記憶がわずか数秒に凝縮され、それが頭の中で何度も過ぎり続けた。  昔から夢野は不器用な女の子だった。人と対話をするのが苦手で、いつも周りの対人関係に悩みを抱えていた。そのせいか、友人は少なく、彼女の短い生涯の中で友人らしい友人は僕一人だったと思う。 「ねえ、春樹くん、手を繋いでもいいかな?」 孤独に好かれて、それでも寂しがり屋だった彼女は、縋るように僕の手を握ることが多かった。  手から伝わってくる彼女の体温は少しばかり不可解なものだった。彼女の体温はどんなに暑い夏だろうと、どんなに寒い冬だろうとその温度を変えることはなく常に一定だった。そのおかげか、僕は彼女の手に触れれば顔を見ずともその温度で彼女のことを認識することができた。  そして、彼女は僕の手を握るたびに決まってこんなセリフを言った。 「どうか、この体温を忘れないで欲しい」  夢野はどうしようもないくらい忘れられることと、忘れてしまうことを恐れていた。時がたてば風化していってしまう記憶を、何とかしてそのままの状態で保管しておくことを望んでいた。 「ああ、きっと忘れないさ」  夢野の言葉に僕は毎度変わらずそんな言葉を返した。忘れるはずがないと思っていた。いや、そもそも彼女の記憶どころか、彼女自身が僕から離れていくはずがないと思っていた。人生の半分を共にした彼女は、そのもう半分も当然のように僕の隣にいてくれるものだと思っていた。  しかし、そんなものは思い込みに過ぎなかった。  彼女は命を奪われ、思い出へと変貌した。変わらない魂から、すり減っていく記憶に姿を変えてしまったのだ。  消えていった彼女はそれでも、僕の心の中には確かに存在していた。彼女との約束通り、僕は彼女の顔も声色も体温ですらも、ひと時も忘れたことはなかった。  春風になびく桜を見たら、その下で頬を桜色に染めながら照れ臭そうに笑う彼女を思い出した。夏空に浮かぶ花火を見たら、色鮮やかに照らされた彼女の瞳を思い出した。紅色に染まる木の葉を見たら、肌寒さで赤く染まった彼女の耳朶を思い出した。降り積もり雪の上を歩けば、隣でマフラーに顔を埋めた彼女のことを思い出した。  どの季節でも、どの時間でも、僕の人生は彼女の色に染まっていた。そのせいか、彼女との思い出を想起させるハードルは何よりも低かった。 そして、事件は僕が大学に入学してから一年が経過したころに起こることになる。  大学での僕の恋愛談は一つもなかった。別にできるだけ人を避けて生きていたというわけでもない。きちんと並みの大学生らしく数人の友達はいたし、その中には女性だって何人かいた。サークルにも所属していたから人との出会いはむしろ高校生の頃よりも多かったかもしれない。  けれども、恋愛をする気にはなれなかった。もし自分に恋人ができたらまたその人を失うのではないか、そんな恐怖がなかったわけではない。しかし、どちらかと言えば、僕はただ桜木夢野という女の子の亡骸に囚われていただけなのだろう。  そんな中、僕が二年生の春に所属していた軽音サークルに数人の新入部員が入ってきた。そこまではまだよかった。ほんの小さなことで夢野を思い出すようになっていた僕にとって、その中に夢野と似たような顔、声色、性格の人間がいればその人のことを見るたびに夢野のことを思い出すことになってしまう。しかし、運のいいことにそんな人間は新入部員の中にはいなかった。  数人の新入部員の中で、一人だけ僕の目を引いた人間がいた。その子は桜木夢野とはかけ離れた人間だった。夢野が背中の中ほどまで伸びる長髪だったのに対し、彼女は肩にもかからないほど短髪だった。性格の方も不器用だった夢野よりも遥かに社交的で、すぐにサークルの人間と打ち解けることができていた。  そんな彼女に僕がどうして注目することになったのかは自分でも定かではない。もしかすると、僕は彼女を利用して夢野のことを忘れたかったのかもしれない。  しかし、一つだけ誤算があった。夢野とかけ離れたはずのその女の子には、一つだけ彼女と同じ特徴があった。 「春樹さん、私、雪村実優(ゆきむらみゆう)です。よろしくお願いします」  サークルの集まりで初めて実優と出会ったとき、彼女はお近づきの印として僕に握手を求めてきた。当然、僕はその握手に快く応じた。彼女もまさか素性を隠している暗殺者というわけでもあるまいから、体のどこかに仕込んでおいた毒塗りのナイフで刺される心配をする必要はない。だから、このときの僕は完全に油断しきっていた。  しかしながら、僕は結果として、彼女に今度の人生を狂わせるほどの毒を仕込まれることになる。 触れ合った手からは互いの体温が流れた。掌を導線として流れてきた実優の体温は夢野の体温と酷似していた。 咄嗟に実優の手を放したが、もう遅かった。たとえ夢野と何かが酷似しているとしても、顔や性格ならまだ救いはあった。しかし、体温だけは僕にとって強烈な呪いだった。 「覚えていてくれたんだ」  聞こえるはずのない声が耳元で響いた。それが実優のものでも、周囲にいたほかの女性の物ではないことは明確だった。その声は確かに僕の脳内で夢野の声色で再生された。  そして、この瞬間から、僕は生前の夢野を象った空想上の女の子が自分のすぐ隣に見えるようになった。ありもしない女の子の存在を感じ取るなんて、自分でもどうかしているともう。けれども、僕はそうまでしてでも夢野のという存在に縋りつくしかなかったのだ。 「どうか、忘れないで欲しい」  その言葉は呪い以外の何物でもなかった。  僕が一人になるとユメノは決まって僕に話しかけてきた。  例えば、僕が一人で大学に通学しているとき、ユメノはいつも僕の手を握ろうとしてきた。それが僕の妄想であることは僕が一番よく知っている。しかしながら、彼女に手を伸ばされるとそれに抗うことができなかった。  当然、彼女は他の人間には見えていない。はたから見れば、僕は虚空と手を繋いでいるおかしな人間だ。けれども僕自身には僕と手を繋いでいるユメノの姿が見えている。あるはずもない掌から、忘れもしない体温が流れてくるのだ。  真っ当な人間の道を踏み外した僕は、それでも元の道に戻ろうと躍起になったこともあった。大学のサークルに行けば、僕は何かと理由をつけて実優と話すようにしていた。彼女は体温を除けば夢野からかけ離れている人間だ。体に触れさえしなければ、その間は夢野のことを忘れられる。夢野を忘れている間は、ユメノの方も僕の隣に姿を現すことがなかった。  そんな生活を続けていたある日、いつも通りサークルに向かうと珍しく実優の方から僕に話しかけてきた。 「春樹さん、今度の土曜日、時間ありますか?」 「ああ、基本的に土曜日は暇だよ」  彼女の真意を汲み取ろうとしないまま、僕は質問に答えた。そして、答え終わった後で、もう少し落ち着いて回答を選ぶべきだったと後悔した。 「それなら、遊びに行きませんか?」  少しの間、僕は沈黙した。彼女の言った言葉を何度か頭の中で反芻し、僕と彼女の間でその言葉の中に解釈の違いがないかを慎重に確認した。 「それは、えっと、二人きりで?」  我ながら、このときの僕は滑稽だったと思う。たかだか遊びに誘われただけで激しく動揺し、それを隠すように何とか平常心を保っているふりをしているのだから。 「はい。もちろんです」  何がもちろんだったのだろうか。そうは思ったものの、もちろん言葉には出さなかった。  自分で聞いておきながら、実優の返答に僕の動揺はピークを迎えた。けれども、これは仕方ないことなのだ。生まれた瞬間から夢野以外と二人きりで遊ぶという経験がない僕にとって、誰かにこうして遊びに誘われるのはほとんど初めてだった。  僕が返答をしない間、実優と僕の間に気まずい沈黙が流れる。言葉の隔たりを埋めたいのは山々だったが、小さな言葉ですら喉の検問を通らない。 「……うん、いいよ」  ふり絞って出た言葉はたったそれだけだった。けれども、実優の顔はその僅かな言葉だけ霧が晴れたみたいに明るくなった。 「ありがとうございます」そう言って笑う実優の顔は溌剌としていて、穏やかな笑顔を浮かべる夢野とは対照的だった。  それから実優は今度の土曜日の予定をひとりでに立て始め、僕はそれにただ頷いいているだけでその予定がだんだんと形成されていった。 「それなら、今週の土曜日、十時に駅前に集合しましょう」 「ああ、わかった」  半ばぼんやりとした意識のまま、僕は実優の言葉に頷いた。そして、実優はその言葉を置き去りにするように、僕に手を振りながら他のサークルメンバーの方に去って行ってしまった。  彼女が去った後、僕は彼女が言った予定を言葉の余韻を噛みしめるように頭の中で何度も繰り返した。そうしている間は、僕が一人でもユメノは姿を現すことはなかった。  しばらくして、その余韻が尽きるとユメノは唇を尖らせて僕の隣に現れた。 「行っちゃうの?」  僕は言葉に出さずに「ああ」と答える。 「……そっか。まあ、楽しんできなよ」  もちろん、そうするつもりだ。僕はもう君には惑わされない。新しい思い出の中に君のことを沈めてやる。  僕は幻想を振り切るために、サークルの輪の中に溶けていった。  そわそわしながら待ち合わせ場所に向かうと、集合時間よりも三十分ほど早く着いてしまった。当然、辺りを見回してみても実優らしき人影はどこにもなかった。 「いないね」  真横からユメノの声がしたが、僕は何も答えずにポケットに入れていたスマートフォンを起動した。イヤホンを装着して音楽を流すと、周囲の音はだいぶ気にならなくなった。  僕が音楽に耳を傾けている間もユメノは懲りずに僕に話しかけてきているようだったが、当然、僕はそれに一度として反応しなかった。これから存在を抹消しようとしている相手にわざわざ反応してやる必要はない。  それから数分が経った後、通知を受け取ったスマートフォンが小刻みに震えた。画面を見てみると、そこには実優からのメッセージが届いていた。 『少し早いですけど、私はもう駅前に着いたので、到着したら教えてください』  その文面を見て僕はくすりと笑った。どうやら気持ちが早まっていたのは僕一人ではなかったらしい。 『僕ももう着いているよ』  そうやってメッセージに返信しようとしたあと、顔を上げるとすでに目の前に立っていた実優と目が合った。僕は画面に触れかけていた親指で電源ボタンを押すと、実優の方に向かって速足で歩き始めた。 「いってらっしゃい」  過去になっていく世界の端からユメノの声が響いては消えていった。  二人分のチケットを手に映画館のロビーをうろついていると、ポップコーンと飲み物が入ったトレーを抱えた実優の姿を発見した。彼女の方も僕を探していたらしく、左右に首を振っていた彼女と僕の目が合った。  実優はトレーの上に乗ったポップコーンを溢さないように、慎重にこちらに近づいてきた。 「やっと見つけました」 「ごめん、やっぱりポップコーンは二人で買うべきだったかもね」 「大丈夫ですよ。私、飲食店でアルバイトをしているので体幹には自信がありますから」  実優はそう言ってはいるものの、トレーの上には何粒かのポップコーンが溢れている。彼女の自信に反して、あぶなっかしさの片鱗は姿を現しているようだ。 「そっか」僕がくすりと笑うと、実優は少しだけ頬を膨らませた。どうやら、からかったのがわかったらしい。 「じゃあ、行こうか」  僕らは互いにトレーとチケットを交換すると、入場口を抜けて目的の番号のスクリーンに向かった。  実優に誘われて見に来た映画は、小説が原作になっている恋愛映画だった。舞台は記憶の消去と捏造が容易になった世界だ。そこではお金を支払い、新しい記憶を脳に移植したり、不用意な記憶を取り除いたりすることができる。そして、その世界で主人公は記憶の消去をするつもりが何かの手違いで記憶の捏造をしてしまい、架空の記憶の中にいた空想上の女の子に恋をしてしまう、というお話だ。  空想上の恋。そんなテーマから、僕は映画の鑑賞している間、その物語の主人公に必要以上に感情移入をしてしまった。存在もしていない女の子に恋をしているという点でいえば、僕とその主人公は同じ立場だと言えるかもしれない。  しかしながら、僕はその映画のオチに酷く落胆することとなった。物語が佳境に入ると、偽物の恋に悩む主人公にとって衝撃の事実が明かされた。空想だと思っていた女の子は実はこの世界に本当に存在していたのだ。そして、それに気が付いた主人公はその女の子と出会い、物語は幕を下ろした。  なんて運のいい主人公なんだろう。僕は流れていくエンドロールを睨みながら、数分前まで主人公に感情移入をしていた自分に腹を立てた。彼と僕は似ているようで全く違うではないか。偽物は偽物でも、僕の偽物は失った本物を成り代わるための偽物だ。そして、この場合、僕は本物に出会うことができない。 「面白かったです」  エンドロールが終わり、劇場が明るくなると、実優は僕にそうやって感想を述べた。  勘弁してくれよ、と僕は思った。 「……ああ、そうだな」  できるだけ平坦な声で、実優の顔を見ずに僕はそう答えた。心は激しく揺さぶられていたが、それを実優に悟られたくなった。もしそうしてしまえば、彼女に僕が架空の女の子に恋をしている人間だとバレてしまうような気がした。  映画館を出ても、気持ちが落ち着くことはなかった。たかが二時間弱の映画の内容が頭から離れなかった。  わかっている。ユメノは桜木夢野をもとに作り上げた架空の人間だ。それを創作主である僕がもっともよく知っている。けれども、あんな映画を見てしまったら、もしかしたら本物なのではないかとどうしても思ってしまう。  それからというもの、楽しむはずだった実優との時間に僕は全く集中することができなかった。昼ご飯を食べているときも、カラオケに行き歌を歌っているときも、消してしまうはずだったユメノの幻影を目で追ってしまうようになった。そして、それは展望台で夜景を眺めているときまで続いた。 「春樹さん、実はあなたに大事な話があるんです」  夜景を見るふりをして、隣に居座っているユメノのことを眺めていた僕に、実優は改まった様子で話しかけてきた。 「どうかした?」  明後日の方を向いていた視線を反対側に向けると、そこにはこちらに体を向けて何やらそわそわしている実優の姿があった。展望台の照明は薄暗く、彼女の顔ははっきりとは見えない。だが、それでも彼女の頬が少しだけ赤らんでいるのが確認できた。  まさか熱でも出したんじゃないだろうか。実優の変化に勘づいた僕はあまりに鈍感で、そうやって明後日の方向に思考の舵を切った。 大丈夫か、僕はそうやって声をかけるよりも前に、実優の方が先に口を開いた。それは願ってもみない言葉だった。 「私、春樹さんのことが好きなんです」  その瞬間、隣にいたはずのユメノが姿を消した。実優のたった一言に心の中が支配され、ユメノを作り出すことにメモリーを裂くことができなくなったのだろう。  実優はそのまま言葉を続けた。僕にはもう、彼女の言葉しか聞こえていなかった。 「サークルに入ってから、ずっと面倒を見てくれてすごく嬉しかったんです。大学に入ってからわからないことばっかりで、サークルでもうまくやっていけるか心配でした。だけど、春樹さんのおかげでそんな不安もなくなったんです」  そこで実優は一度言葉を区切った。いや、区切ったというより、その言葉を継げることが恥ずかしくて堪らなかったのだろう。少しの間をあけてから、彼女は二の句を告げた。 「だから、私と付き合ってくれませんか?」  そう言って、実優は自分の手を前に出した。  初めに浮かんだのは喜びと驚きだった。目の前の女の子が自分のことを好いてくれているという事実があまりに嬉しくて、衝撃的だった。そして、次に浮かんだのは「夢野を忘れられるかもしれない」という少しだけ邪な考えだった。  頷いてしまえ。頭の中でそんな声が響いた。今、ここで彼女の告白に答えればお前はもう、夢野の呪いから解放されるんだ。そうだ、頷いてしまえ。  手を握ってやるつもりだった。断る要素がどこにもなかった。けれども、実優が出した手に一瞬だけ触れたとき、彼女の体温が僕の方に流れてきた。その瞬間、消えていたはず夢野の幻影が再び現れた。 実優の手に触れていたはずの僕の手をぎゅっと握りながら、ユメノは言った。 「行かないで」  僕はゆっくりと自分の手を元の位置に戻した。 「ごめん」  目の前に訪れたチャンスを棒に振るのに、たったそれだけの言葉があれば十分だった。 「……そ、そうですよね。まだあって数か月の後輩にこんなこと言われても、気持ち悪いだけですよね」  実優のそんな言葉を最後にして、僕らの間には不快感しか覚えないような沈黙が走った。僕は実優の顔を見ることができなかった。彼女の顔を見たら、僕は罪悪感で圧し潰されてしまいそうだった。なにせ僕は目の前の自分を好いてくれる女の子よりも、どこにもいないはずの女の子を選んだのだから。  沈黙の果てに僕らは展望台から降りた。そして、地面に足を踏み直すと、それから互いに別々の道を歩み始めた。 「春樹くん、ありがとね」  気が付けば、隣を歩く女の子は実優からユメノに変わっていた。 僕はきっとこれからの人生で、ずっとこの呪いと向き合っていかなければならないのだろう。  僕はそっと、ユメノの手を握った。そこにあるはずのない体温を感じた。 「ユメノ」と僕は彼女の名前を呼んだ。 「これからもよろしく」  ユメノは何も言わず、ただ頷いただけだった。  彼女が人生をかけて生んだ呪いは、まだ続いている。
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