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もう少し、雨
あの地区予選から1週間。早々に大会進出を逃した野球部は、早くも秋の地区予選――3年生が引退したあとの大会――に向けて、動き出していた。柾木先輩は、一度だけ荷物の整理のため部室に顔を出したが、それ切りだ。『思いがけない野球生活の幕切れに、心が折れてしまったに違いない』――真しやかな噂が広がった。先輩方も遠慮しているのか、無理に部活に誘ってはいないようだ。
だから、こんな時こそ、僕が。監督に休みをもらって、柾木先輩の家を訪ねた。
「……山之辺か」
「はい。迷惑でしたか」
「いや……」
玄関先で追い返すことも出来ただろうに、先輩は2階にある自分の部屋に上げてくれた。
「もう俺は、引退したようなもんだぞ」
ベッドを背にして座った先輩は、自嘲気味に苦笑いした。
「僕、気づいたんです。野球に打ち込んでいた先輩が好きでした。でも、野球をしていなくても、やっぱり好きだなぁって」
負けても、挫折しても、たとえ情けない醜態を晒しても……どんな貴方でも、僕は変わらないから。
「訳分かんねぇ。どこに好きになる要素があるんだよ」
「それ、言わせます?」
「いや……いいわ。なにかが揺らぎそうだ」
揺らいでくれていいのに。そんな本音を飲み込んで、持参した手土産をテーブルに乗せた。水色の箱を開けて、シナモンクッキーを差し出す。
「クッキー焼いたんですよ。元気が出る、魔法のクッキーです」
「……乙女か」
先輩がいなくても、部活に手作りお菓子を差し入れることもある。それはあくまでも練習で、これは本気モードの本命用だ。
「部活の皆も待ってますよ、先輩」
「あー、今更だろ」
「なに言ってるんですか! 技術もメンタルも人間性も、先輩から学びたいことは、沢山あるんですよ」
「……そうかな」
「そうです。疑うなら、確かめに来てください」
「それって、アレだろ。嘘でも本当でも、行かなきゃならないって理屈」
「あはは。バレました? でも、僕、先輩には嘘つかないです」
「……ずりぃわ、お前」
クッキーをつまみながら、最近の活動を話す。レギュラー目指してギラギラしている2年生のこと、基礎体力向上に地道に取り組む1年生のこと。受験対策の補講の合間に、後輩の指導に来てくれている3年生のこと。
「わあ、雨だ。止むまで、もう少しいてもいいですか?」
バラバラと音がして、首を伸ばすと雨が降っていた。空は明るいから、お天気雨かもしれない。
「雨、か……」
あの試合のことが思い出されるのか、天井を仰いだ柾木先輩は、フウッと苦しげな息を吐いた。
「山之辺、ここ、立って」
腰を浮かしてベッドの縁に腰かけると、開いた両膝の間を示す。僕は頷いて、彼の正面に移動した。不要な雑音で、この張り詰めた繊細な想いを壊さないように、注意深く。
「元気……くれねぇ?」
「……巨乳じゃなくてもいいですか」
「もうそれ、忘れろ」
前傾姿勢で俯く頭を、そっと両腕の中に閉じ込める。あの日のように腰を抱いてはくれないけれど、先輩は僕のペタンコの胸板に大人しく額を付けている。
「……好きです、先輩」
沈黙の中、規則的な雨音と、時計が時を刻む音がする。まだ止まないで。いつまでも……降り続いてくれたらいい。
【了】
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