少女と老人

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少女と老人

 少女はある時、一人の老人と出会った。  その通りは塔に通じる通りの一つで人通りが多く、彼らを客に見据えた屋台やら、ストリートミュージシャンやらでごった返していた。  派手な街灯に負けじと、住人の格好は派手だ。主要な通りを通れば明かりなんて関係なしに目がチカチカしてしまう。  そんな視覚と聴覚の情報が氾濫する通りにあって、その老人だけが静かで、逆にそれが少女の目を引いた。  伸びまくりの頭髪は真っ白で、灰色のタンクトップと股引きから伸びる手足は血の気無くやせ細っていた。  老人はコンクリートの地面の上にあぐらをかきながら、手を一心不乱に動かして、ノートのようなものになにやら書きつけていた。周りには本が山積みになっている。 「おじいさん、何を書いているの?」  少女が声をかけると老人は鉛筆を動かす手を止め、ギョロリと落ちくぼんだ目で少女を睨んだ。 「お前さん、名前は?」  老人の突然の問いかけに、少女は驚いて何も答えられなかった。  今まで少女が話しかけた人は、どんなに忙しそうにしていても笑顔で彼女に応じてくれた。  それなのにこの老人は、おっかない目付きで少女を見上げてきて、しかも彼女の問いかけに答えてくれなかった。  それに、少女は今まで名前を聞かれたことなど無かった。この街で名前といえばそれは『人間』や『犬』などの一般名詞のことであったり、『動物界、脊索動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、サピエンス種』のような学術名のことだからだ。  もちろん、少女がそんなことを知っているわけもない。そもそも、道すがら聞くようなことではない。  少女が答えようもなく黙っていると、老人は大きなため息を一つ付いた。  少女は叱られるという体験をしたことが無かったけれど、その時の少女の心情は叱られたときの、あの心情と同じだった。 「」  老人は再び、ぶっきらぼうな口調で少女に問いかけた。    今度は聞かれた意味が分からなかったので、やはり少女は何も答えられなかった。  少女が抱いていた『怖い』が、段々と『辛い』に変わっていった。その気持ちが抑えきれなくなって、少女は泣き出してしまった。  少女が泣き出しても通りの喧騒は変わらなかった。時々近くを通る人が老人を非難するように見るけれど、誰も少女を宥めようとはしなかった。  ただ一人、老人だけが泣き出す少女を見て困ったように口を開閉させていた。 「お前さん、絵本は読むかい?」  老人は抑揚のない声で少女に問いかけた。  少女は怖くて、辛くて、悲しくて、頭がぐちゃぐちゃになっており、ただただ訳もわからずに首を縦に振った。  それを見た老人は慌てて(といっても緩慢な動作なのだが)周りの本の山をひっくり返すと、一冊の本を少女の前に差し出した。 『ティムとケン』  表紙に、灰色で間抜けそうな顔をした猫と、白くて凛々しい顔立ちの犬が描かれた絵本だった。  老人は少女の前でその本をぱらぱらとめくる。  間抜けな猫のティムは何をやっても馬鹿にされるけれど、優等生の犬のケンだけはそんなティムを絶対に笑わないし、彼がいじめられていたら助けるのだ。  最終的には、いじめっ子の虎のジョーにいじめられているケンを、反対にティムが助けようとして失敗し、最後はやっぱりティムがケンに助けられて終わるのだ。  泣いている少女は話の内容を全然理解できなかったけれど、ティムの間抜けっぷりを描いた絵が可愛らしくて、いつの間にか鼻を啜りながら笑っていた。 「気に入ったかい?」  老人の問いかけに少女は頷いた。硬すぎる声と表情だったけれど、老人が笑っていることは、不思議と少女にはわかった。 「ならこの本はお前さんのもんだ」  老人は本を閉じて少女に手渡した。  少女が本を受け取ろうとすると、老人は本を引っ込めた。 「人から物をもらう時は、ありがとうと言うんだ」  老人がまたおっかない顔で言うので、少女は泣きそうになった。 「ほら、これをやるから泣き止みなさい」  老人が再び差し出した絵本を、少女はひったくるようにして抱え込んだ。  老人は文句を言うでもなく、じっと少女を見つめた。 「ありがとう、おじいさん」  少女は蚊の鳴くような声で言うのに、老人は微かに頷いた。 「その『おじいさん』というのもよくないな。ワシにはミサキ・テツトという名前があるんだ。テツトおじいさんと呼びなさい。そうでなきゃ、他のおじいさんと区別がつかんからね」 「テツトの……おじいさん?」  老人は「まあいいだろ」と言って、ノート1ページ破るとそこに3文字だけ書いて少女に渡した。 「ユ……リ……カ……?」 「そう、お前さんの名前だ。別に、お前さんが気に入らないんだったら捨ててしまってもいいが、この本は、ワシから、お前さんへの贈り物だ。  パンドラが……この街が名前を失くした理由は、ワシにはよくわかる。それでも、お前さんはお前さんだ。少なくとも、ワシが今、話をしているのは、他の誰でもなく、ユリカ、お前さんだ」  そういうと、老人はノートを書き殴る作業に戻ってしまった。  少女は、絵本と紙切れを抱えて立ち尽くしていたが、なんだか心細くなってきたので、家に向かって駆けだした。           
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