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成瀬は何も言わず黙ったまま夏帆の話を聞いた。
「母が危篤で父が病院に駆けつけた日のこと。私はまだ幼くて、その日は伯母にあずけられていました。日が暮れても、いくら待っても、母も父も帰ってこない。どうして帰ってこないのって、私は不安と恐怖で押しつぶされそうでした」
「母親が亡くなった日のことですか…」
「はい…その時の記憶をなぜか、思い出してしまったんです」
夏帆は苦しそうに眉をひそめる。そして、その不安を成瀬に問いかけた。
「成瀬さん…」
「なんですか?」
成瀬は優しく夏帆を見つめる。
「成瀬さんは絶対に帰ってきてくれますか?」
頬を濡らす涙を拭うのも忘れて、夏帆はすがるように成瀬に問う。
夏帆は成瀬の仕事の本当のリスクを理解したのだ。
それを受け入れてもらいたかったのは成瀬。しかし、この仕事に100%の保証などない。その事実も伝えるべきなのか、成瀬の顔から余裕がなくなる。
「あなたを笑顔で見送って帰ってこないなんて、そんなの嫌だっ」
不安でたまらなくなった夏帆が本音をぶつけた。
成瀬も夏帆から目を逸らさず、真剣な顔つきになる。
成瀬としても非常に辛い問いかけだった。しかし、それでも上回る気持ちがある。
夏帆と一緒に居たい、という想いだ。
そして、成瀬はゆっくりと口を開く。
「わたしは必ず、夏帆さんのもとに帰ります。
何があっても絶対に」
ゆるぎない意志を感じる口調だった。
それは頼もしく、夏帆は今すぐにでも成瀬に胸に飛び込みたくなる。
しかし、頭の奥からあの日の苦しい感情が支配しようとする。
”待つ人が帰ってこない恐怖
また体験するするかもしれない”
夏帆の中で、成瀬に飛び込みたい気持ちと過去のトラウマが拮抗していた。
なぜ今になって思いだしてしまったのか、夏帆は苦しくて仕方ない。あふれる涙が止まらない。
「色々な感情がっ…渦巻いてしまって…」
夏帆はしゃくりあげながら懸命に言葉を出した。
「ええ…」
成瀬は優しく手を解き、夏帆の背に手を回した。
そしてゆっくりと包み込んだ。
「…少しだけ時間をください。心の…整理をさせてください」
成瀬の腕の中で夏帆はこどものように泣いた。
「わたしはいくらでも待ちます」
「成瀬さん…好きです。そして…ありがとう」
言葉を発するのも精一杯だった。そんな夏帆を成瀬はさらに強く抱きしめるのだった。
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