虚無

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虚無

 カツカツと音を立てて、古びた官舎の階段を上がる… 疲れた。    二十四時間どころか四十時間近い超過勤務… 帰宅しようとした夕方、繁華街の飲み屋からの通報で現場へ…  店主と酔っ払い客との揉め事。  聞き取りをしている間に、客が店主を殴る事となり、傷害の容疑で現行犯逮捕となった。  調書を纏め、更に検察に出す書類を作り掛け、終わらないままに投げ出して帰って来てしまった。  眠過ぎる… 「シャワーだけでも浴びて…」 考えて居たのに、部屋に帰り着くなりダウンしてしまった様だ…  携帯の鳴る音で目を覚ます。 時間は午前四時半… 「勘弁してくれよ…」 帰宅してから三時間半しか経って居ない。 (普通、当直明けの者に呼び出し掛けないだろ…) と、思い乍らぶっきらぼうに鳴り続ける携帯に出る。 「はい。権城です。」 課長の声が申し訳なさそうに「おお、ゴンか?悪いが失踪人の捜索応援に出てくれないか?」と告げる。  そんなの地域課の仕事…と言い掛けて思い出す。 地域の若手はここで行われているサミットの警備にその大半が駆り出されて居たのだ。 仕方ない…  溜息と共に了解の旨を告げ、着たままだった作業着を着替えて署に向かう。  失踪人は七十二歳の婆さんだった。 娘らしき女性が心配のあまり半狂乱になって居る。  認知症を患って居り、目を離すと直ぐに家を出てしまう婆さんの様で、家人が寝静まって居る間、寒空に寝巻きにサンダル履きと言う軽装で出てしまったらしい。 普段の行動範囲を聞き出し、捜索を開始する。 いつも散歩に行く公園。 買い物に行くスーパー。 お気に入りの海の見える展望台。 考え得る範囲の場所をしらみ潰しに当たるが、見つからない… 「早く探し出さないと、低体温症で下手したら死んじまう…」 くそっ! もう、白々と夜が明けて来た…  漸く婆さんが見つかったと無線連絡が入ったのは、夕方近くだった。 家から3キロも離れた公営住宅の一階の踊り場に拾った段ボールを被って震えて居るのを住人に発見され、通報されたらしい…  兎に角、生きて見つかった様だ。 ほっ‥と安堵して署に戻ると署の出入り口で半狂乱だった娘が泣き泣き見つかった母親を抱き締めて居た。 「まあちゃん、そんなに泣いて、どうしたの?」 婆さんは娘の髪を優しく撫で乍ら自分をきつく抱き締め乍ら泣く娘を慰めて居る…  その後、母娘は何度も頭を下げ乍ら自宅へと帰って行った。 「済まなかったな、権城。今日はもう帰って休め。」 課長に促され、帰路に着く。  あの母娘を見て居ると無性に故郷で一人暮らす母親の声が聞きたくなった。 一刻も早く寝たい所だが、携帯を取る。 「もしもし、俺…うん…うん…ちゃんと食ってるって…」 久々に母親の声を聞いて、暫く振りに安らかな眠りに着く事が出来た。  翌朝、署に着くなりそのニュースは飛び込んで来た。  方々手を尽くして漸く見つかった婆さんが亡くなった…と言う一報だった。    長時間寒空の下に居た母親の為に娘が沸かした風呂でヒートショックを起こし、二度と還らぬ人となってしまったのだ…  母を愛する娘の、その愛情が母親の命を奪ってしまった… やり切れない虚しさが込み上げて来る… あの母娘に忘れ掛けて居た何かを思い出させて貰ったのに…  今日も心に隙間風が吹く… いつになったら俺の心は満たされるのだろう…
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