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いっしょに食べよう晩ごはん
会田耕三、65才。
この日、長年勤めた会社を定年退職した彼は、左手に通勤カバン、右手に花束、記念品、個人的にもらった餞別もろもろが入った紙袋を持って、駅の改札を出た。
自宅のアパートは駅から徒歩10分。
右手に下げた紙袋はなかなかの重さだ。
机の中の私物を、昨日までに全て持って帰っておいてよかった。
スーツを着て出社するのも、通勤定期を使うのも、これで最後。
明日から、何をして一日を過ごせばいいのだろう。
“あなたも趣味のひとつくらい、作っておいてくださいね”
昨年亡くなった妻の言葉が、今さらながら身に染みる。
老後の楽しみなどなにもない、男やもめのひとりぐらし。
まずい。……響きだけでもこれは大変にまずい。
深いため息と共にアパートの廊下を歩く耕三は、隣の部屋のドアの前に、ランドセルを背負った子どもが座りこんでいることに気づいた。
あれは、出口さんちのぼうやだ。
引っ越しの挨拶にきた母親の背中の後ろに、隠れるようにして立っていたのはよく覚えている。
「こんばんは」
「会田のおじーちゃん、こんばんは」
「どうした?こんなところに座りこんで」
「家のカギ忘れちゃった」
「お母さんは?」
「いつも19時すぎに帰ってくるよ」
少しのあいだとはいえ、このまま放っておくのはあまりに忍びない。
耕三はしゃがみこみ、目線をあわせてこう訊ねた。
「お母さんが帰るまで、うちに来るか?」
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