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授業が終わったばかりの解放感が講堂を満たしていた。
それを切り裂く悲鳴が鳴り響く。
何事かと波紋が広がるように音が止み、自然と皆の視線が中央へ集まる。
この騒ぎの原因はやはり、彼女たちだった。
「あなた、どこに目をつけていらっしゃるの?」
「バイデン公爵令嬢様……!!」
ここ最近、なにかと話題に上がる問題人物が今日も問題を起こしたようだった。
バイデン公爵令嬢と呼ばれた、一際気位の高そうな女生徒が冷え冷えとした声色で一人の生徒を見下ろしている。
バイデン公爵令嬢の足元、何かに躓いたのか床に転がったまま睨まれたウサギのように身体を震わせているのはサマリア商会の……平民だ。
平民である少女がこの貴族学校に通っている理由はひとえに彼女の膨大な魔力が理由だ。彼女はこの王国一の魔力量を保有しているというふれこみで平民の身ながら、この貴族学校へ通うことを許され……最近ではこの学園に通う第三王子まで囲い込みを始めているという噂だ。
その第三王子の婚約者であるバイデン公爵令嬢はもちろんおもしろくないだろう。
今日も平民の少女キャサリン・サマリアを、永久に溶けることが無い氷山のような温度で見下ろすブルーの瞳が怒りに燃え、黄金に輝く縦ロールがブルンと大きく揺れた。
バイデン公爵令嬢の扇を手がふるふると震えるたび、水がポタポタと地面に落ちていく。
───この話の主人公はこちらの悪役令嬢……いや、公爵令嬢ではない。
「あの……っ、バイデン公爵令嬢様……」
濡れ鼠の公爵令嬢を見上げて震えていた、ストロべリーブロンドの華奢な少女がようやく身体を起こし、膝を折った。そして、拳をとんと前につく。その姿は忠誠を誓う騎士のそれで。
「この度は……心より申し訳なく……!!」
公爵令嬢は誰よりも先に扇をピシリと男爵令嬢に向けた。
「この度ではなく、いつも、でしょう! 言い直しなさい!」
少女の深い謝罪の滲む腹からの声に見物人は「はて」と目を疑った。
先ほどまで身も世も無く悲壮感をたたえ床に転がっていた少女から発せられているとは思えないほど、力強い声だった。謝罪に慣れている。
公爵令嬢のとりまきは死んだ目をして、それぞれハンカチで公爵令嬢を拭いている。その手つきは慣れていた。
とりまきの一人は「今日はこう来たか……」と悔しがってさえいる。
未だ何が起きたのか把握出来ていない者はきょとんと成り行きを見守っているが、見慣れた者もいるのか一部「やれやれ」といった風だ。
「ですから、何度も言っているようになんですのその姿勢は。潰れた虫のようでしてよ!」
「最上級の謝罪をする時はこうだとエリオット様に伺いましたぁ!!!」
「声が大きい!!!」
もちろんどちらの声も大きいので講堂内の全員に聞こえている。オペラを見ているような一体感が、ここにはあった。
「エリオット様は脳筋……ンンッ、殿下の近衛騎士なのですから良いのよ。あなたは騎士ではないの。いくら平民といえど、この学園に通うのでしたらマナーを学びなさいと忠告しましたわ。もちろん、貴族令嬢のマナーよ」
キャサリンは濡れた新緑のような瞳をハッと見開いた。
「貴族の中にも種類があるとは盲点でした」
「あなたの中の貴族は1種類しかいないの?」
鋭い指摘にペシリと額を叩くキャサリンの仕草は平民のものだろうか。良い音が鳴った。
ゆるんだ空気の中、公爵令嬢がクシュンと小さくくしゃみをした。
その音を聞いて少女は慌てたように指を振り上げたが公爵令嬢の扇がピシリと制した。
「やめなさい! 今度は天井に穴を開けるつもりですの!?」
「ですが、このままずぶ濡れでは風邪をひいてしまいます。風魔法は得意なのです、お任せください。バイデン公爵令嬢様の大事なお荷物も一瞬にして乾燥させてみせます」
公爵令嬢のとりまきたちは一瞬にして陣形を組み、守るように構えた。誰かが「今度は砂漠化……?」と呟いた。恐ろしすぎる。
「あなたはまだ、その規格外の魔力を使いこなせていないのでしょう」
「お恥ずかしい限りです。こちらの教卓の花瓶に水を足そうと思ったら、学園の華と名高いバイデン公爵令嬢様に水をかけてしまいました。はっはっは」
「誤魔化し方が古いわ。教頭先生の真似はおやめなさい」
「さすが公爵令嬢様。当たりです」
年季の入った冗談話が好きな教頭の笑い声が聞こえてくるようだった。
「良い匂いにつられ、気がそれてしまいました」
平民の少女はこの王国一の魔力量を保有している……ことはわかっているが、魔力出力とコントロールが苦手なようでたびたびこうした騒ぎを起こしている。
そして何の因果か、いつもいつもその被害に合うのはバイデン公爵令嬢なのだ。
公爵令嬢は騒ぎに疲れたように頭を振ると、扇を一振りした。
身体を濡らしていた水滴がふわりとまとまり一塊になっていく。それが頭上高く浮かび、ピシピシと凍ると氷の粒になり講堂に降り注いだ。
それはなんとも幻想的な光景だった。
「お見事!!! 良い匂いも戻ってきました」
その言葉に一瞬、公爵令嬢の動きが止まる。しかし少女の「次いで、こちらの床と私の服もお願いいたします!!」という声に流される。
「あなた反省しているの!? こんなことでは先が思いやられるわ。この学園へ来るのはまだ早かったのではなくて?」
反省しているのか煽っているのか、場にそぐわない掛け声を出す少女にまた一喝。
「殿下も何をお考えなのかしら。このように躾のなっていない平民を手ずから構って……あなたに必要なのは殿方ではなく……」
「───遅いと思ったら何事なんだ、ジョアンナ。キャサリンも」
「殿下……っ」
誰かが知らせたのか、人波をかき分けるように登場したのは第三王子だった。
イエローダイヤモンドのように輝く瞳がこの場をさらりと撫でると、状況を把握したのか重いため息をついた。
ピリリと、一時ゆるんでいた空気に緊張がはしる。
「で、殿下、違うのです、これは……」
先ほどまで目を釣り上げ怒りに燃えていた公爵令嬢は弱ったように眉を寄せ、説明しようと婚約者である王子へと駆け寄った。
「君の声が講堂の外まで聞こえていたよ。随分、盛り上がっていたようだね。君ともあろう人が珍しい」
「違うのです……っ」
「殿下、バイデン公爵令嬢様は至らぬ私を助けてくださったのです。お叱りを受けるのは私の方です」
「おやキャサリン、ずぶ濡れじゃないか」
「それは……っ」
第三王子と公爵令嬢の婚姻は政略バランスを鑑みたものであることは学園の皆が知っていることだ。
そして、最近の”お気に入り”はこの平民の少女であることも、皆が知っていることだ。
───ずぶ濡れのまま床に伏せる庇護するべき膨大な魔力を保有した平民少女と、身分を笠に着て平民の少女に厳しい声をかけていた公爵令嬢。
この構図を見た第三王子はどう裁くのか。
この講堂にいる全員が、息を殺して王子の次の言葉を待った。
一人を除いて。
「……ハッ、公爵令嬢様、今ですよ、言うなら今ですっ」
本人は囁いているつもりなのだろうが、なにせ平民。声がでかい。
「な、なにを」
「その良い匂いのする包みの件ですよっ」
皆の視線が公爵令嬢の手の中にある包みに集められる。それを察した公爵令嬢がさっと後ろ手に隠すが、もう遅い。
その包みは今朝から公爵令嬢が手ずから持ち運んでいた包みだった。
それにしたって匂いは感じなかったが、少女にはわかるらしい。
「最近よく公爵令嬢様から甘い匂いがするなぁ、美味しそうだなぁと思っていましたが。今日は一段と美味しそうな匂いです。絶対美味しいですよ」
「い、いまは関係ないわっ」
公爵令嬢は逃げるように後ろへと下がっていくが、だんだんと公爵令嬢の勝気な瞳は潤みはじめ、声が震えている。
その婚約者の様子に何事かと王子は心配そうに一歩距離を縮める。
「素直になるなら今ですよっ、そのアーモンドの匂い、クッキーですよね? 殿下がアーモンドのクッキーが好きだって知ってからいっつもその匂いがしていました! つまり、それは殿下へのプレゼントなんですよね!?」
囁いていたはずが、途中から犯人を追い詰めるかのような声量で公爵令嬢の暴露をしているのに気付いているのだろうか。腹から声が出ている。
「なんですのその犬のような嗅覚は!?」
「───ジョアンナ」
取り乱す公爵令嬢の手から包みを持ち上げた王子は戸惑ったように婚約者の手を握った。
名を呼ばれた侯爵令嬢はわなわなと震えながら王子を見上げている。
「ジョアンナ、それは本当に……? 一緒にお茶をと誘われていたのは、この件で?」
「いぃいえっ、今日は、その、この平民のキャサリンさんの件で殿下に一言ご忠告申し上げようと……ッ」
「あぁ、キャサリンの教育を任せてほしいと言っていたね、仲良くやっているようで安心したよ。それよりも先に確認したいんだが」
「わぁ!!さすが公爵令嬢様、美人な上に優しい!!!」
「キャサリン、今良いところだから。騎士たるもの、主人の良い空気の時は置物のように気配を消すんだ」
「ハッ、今、良い空気なんですね。察しました」
ある意味で素直で勉強熱心なキャサリンは、王子の傍に控えていた近衛騎士であるエリオットの教えを吸収すると横にスンッと並んだ。
「なっ……!、なんですのなんですの!?言ったそばから、エリオット様も変なことをキャサリンさんに教えてっ」
公爵令嬢は頬を染めてわなわなと震えているが、それは怒りではないだろう。
ことの成り行きを見守っていた生徒たちに生ぬるい視線を注がれ、居たたまれなくなったのか公爵令嬢は王子から距離をとると平民の少女の前に立ちふさがった。
「私はこの学園で殿下の次に魔力コントロールが得意なの」
「すごい!」
「そ、それに、貴族令嬢のマナーだって王妃様のお墨付きよ!」
「さすが!」
「だからっ、あなたのことは私が躾てあげますわ。いつまでも殿下につきまとうのはおやめなさい!」
「ご褒美のツンデレ!」
王子はたまらないといった様子で婚約者の言葉の真意を聞こうとそわそわとしているが、それに気付いているのかいないのか公爵令嬢は腰に手を当て「ツンデレ……?」と戸惑っている。
「ま、まぁいいわ。今は躾のなっていない犬のようでも、これからよ。あなたも身体をあたためましょうカフェに行くわよ」
「はっ!どこへでもついていきます!!」
「声が大きいわ!!」
まるで嵐のように騒がしかった講堂には「二人じゃないのか……?」と王子の呟きだけが残ったとか。
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