5人が本棚に入れています
本棚に追加
65
定年退職。長いようで短い看護師人生が終わった。一成はサプライズで箱根の温泉に旅行に連れて行ってくれた。しっとりとした湯が今でも鮮明に思い出される。
今日は晴天だ。桃子は久しぶりにおにぎりを作り、庭にビニールマットを広げ一成と二人で昼食をとった。大きな松の木が木陰となり、直射日光が当たらないため気持ちがいい。一成は3年前に定年退職している。
「やっぱり、おにぎりは塩と海苔がシンプルで一番うまい」
一成は大きなおにぎりにかぶりつきながら感想を言った。
「私は鮭に自信があったんだけど」
桃子はふくれてみる。もう定年後だ。娘時代の可愛らしさなど微塵も持ち合わせていないけれど、一成相手では甘えてしまう。
「ああ。鮭もうまいよ」
一成は一瞬しまった、という顔をして鮭おにぎりに手を出した。
食が細くなったなあと思う。出会ったころの一成はおにぎりの3個や4個、ペロリと平らげたものだった。
「その時計、今も動いているんだな」
一成が唇についた米粒をつまみながら桃子の手を見た。
「定期的に、道に修理してもらってるから」
道は時計職人を極めるため、スイスに留学していた。会社で一目置かれる存在になっているらしい。母親として誇らしい。
祖父の形見は、今も、昔と変わらず時を刻み続けている。
「恵がさ、一緒に住もうと言っているんだ」
「そうなの。私も後10年は壊れない予定だけど、それ以上はね。この機会にお世話になるのは良いかもしれない。恵の旦那さんにご迷惑をかけちゃうかもしれないけれど」
恵はもう、立派な所帯持ちだ。
「どうしようもないくらい頭や身体にガタがきたら、その時はおとなしく施設にでも入るよ。それまでの間は専業主夫。どうかな」
「うん。いいかもしれない」
微風が松の葉を揺らす。時計の秒針が動く。
65年も生きてきて、もう人生の終盤だなと思いつつも、まだ生きたいと思う。桃子の両親もそう感じていたのかなと葬儀の光景が頭に浮かんだ。
最初のコメントを投稿しよう!