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 定年退職。長いようで短い看護師人生が終わった。一成はサプライズで箱根の温泉に旅行に連れて行ってくれた。しっとりとした湯が今でも鮮明に思い出される。  今日は晴天だ。桃子は久しぶりにおにぎりを作り、庭にビニールマットを広げ一成と二人で昼食をとった。大きな松の木が木陰となり、直射日光が当たらないため気持ちがいい。一成は3年前に定年退職している。 「やっぱり、おにぎりは塩と海苔がシンプルで一番うまい」  一成は大きなおにぎりにかぶりつきながら感想を言った。 「私は鮭に自信があったんだけど」  桃子はふくれてみる。もう定年後だ。娘時代の可愛らしさなど微塵も持ち合わせていないけれど、一成相手では甘えてしまう。 「ああ。鮭もうまいよ」  一成は一瞬しまった、という顔をして鮭おにぎりに手を出した。  食が細くなったなあと思う。出会ったころの一成はおにぎりの3個や4個、ペロリと平らげたものだった。 「その時計、今も動いているんだな」  一成が唇についた米粒をつまみながら桃子の手を見た。 「定期的に、道に修理してもらってるから」  道は時計職人を極めるため、スイスに留学していた。会社で一目置かれる存在になっているらしい。母親として誇らしい。  祖父の形見は、今も、昔と変わらず時を刻み続けている。 「恵がさ、一緒に住もうと言っているんだ」 「そうなの。私も後10年は壊れない予定だけど、それ以上はね。この機会にお世話になるのは良いかもしれない。恵の旦那さんにご迷惑をかけちゃうかもしれないけれど」  恵はもう、立派な所帯持ちだ。 「どうしようもないくらい頭や身体にガタがきたら、その時はおとなしく施設にでも入るよ。それまでの間は専業主夫。どうかな」 「うん。いいかもしれない」  微風が松の葉を揺らす。時計の秒針が動く。  65年も生きてきて、もう人生の終盤だなと思いつつも、まだ生きたいと思う。桃子の両親もそう感じていたのかなと葬儀の光景が頭に浮かんだ。
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