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01-01:死と再生
「東京の外れに古ぼけた一棟の共同アパートがある……。いまにも穴があきそうな屋根には苔がむし、いまにも崩れ落ちそうな壁には蔦がはっている。誰もこのボロアパートに寄りつこうとはしない。無論、人が住んでいるなどと誰が思うだろうか? だがしかし、ここが超エリートの人間界管理人、六道 輪廻の住まいなのであった……」
ぶつぶつと独り言をいいながら、メグルは軋む引き戸の玄関を開けた。
目の前に大きな柱時計がある。
暗闇に浮かび上がる文字盤は、すでに夜中の三時を示していた。
夜間偵察に疲れ果てた身体を引きずるようにして玄関を跨いだメグルは、壁をまさぐり電灯のスイッチを押した。
「いつもの通り、明かりはつかない。管理人の住むアパートに、管理人はいないのだ……」
またも独り言をいいながら靴を脱ぐと、すぐ横にある共同の下駄箱に放り込んだ。
メグルはこの下駄箱に、自分以外の靴があるところを見たことがない。
暗闇のなか手探りで階段を見つけて上がる。
腐りかけた踏み板の軋む音が、静まり返ったアパートのなかを無遠慮に響く。
二階の廊下には裸電球がひとつぶら下がっていて、隙間風にでも吹かれているのか、いつも埃まみれの体をゆらりゆらりと揺らしていた。
橙色の薄暗い明かりが、両側に並ぶ部屋のドアと、まっすぐにのびる廊下をぼんやりと照らしているが、その先は灯りがなく、吸い込まれそうな暗闇がどこまでも続いている。
我が住いながら、そのあまりに不気味な佇まいに息をのんだメグルは、逃げ込むように左側の一番手前にある『五番』と書かれた自分の部屋に飛び込んだ。
「まったく……。なんでぼくみたいなエリートが、こんなにボロくて薄気味悪いアパートに住まなくちゃならないんだ」
早鐘を打つ心臓を押さえながら電灯からのびる紐をカチリと引っぱる。
青白く弱々しい蛍光灯の明かりが、カビ臭さが漂う六畳一間の和室を照らした。
まるで昭和の初めから時間が止まったかのようなその部屋は、湿気っぽい畳と、破れかけた押入れのふすま。細長い鏡の付いた化粧台に、クモの巣がからまった茶箪笥。
小さな流し台にある蛇口からは、始終ぽたぽたとしずくが垂れていた。
部屋の中央に置かれた小ぶりな丸いちゃぶ台には、一本のひびが走っている。
まっぷたつに割れてしまった天板を合わせ、裏から当て木をして修繕したあとだ。
メグルはそのひびを指でなぞりながら、深い溜め息をついた。
*
死は、その男に突然おとずれた。
それは苦しいものではなく、むしろ安らぎに近かった。
視界に映るのは真っ白な天井。その端から妻と子どもの顔がのぞき込み、懸命に何か話しかけている。
男はぼんやりとその光景を眺めながら(死ぬ瞬間とはこんなものか)と思っていた。
残す家族が気がかりだったが、なぜか安心してもいいという、妙に確信めいたものを感じた。
(この死は挫折ではない。むしろ前進。進むべき道……)
そして、命が尽きた。
瞬間、男の意識は重い鎧を脱ぎ捨てるように体から抜け出し、天に向かって飛びたった。
溢れんばかりの光が自分を取り巻く。
暖かくやわらかな光のなかに、少しずつ自分が溶けていく。
宇宙とも思えるほどの広く大きな意識に抱かれている安堵感を覚えつつ、男はゆっくりと目を覚ました。
「おはよう。どうだったね? 人間としての一生は……」
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