序章~姫宮創一の初恋

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序章~姫宮創一の初恋

――もうピアノなんて弾きたくない。 姫宮創一はトイレの個室に籠もり、床にしゃがみこんで膝を抱えていた。今日はピアノコンクール当日、かれこれ十五分くらい籠城している。 「姫宮くんはまだ七歳なのに二回も優勝してえらいね」 「今日も優勝も間違いなしだね」 「将来は、ピアニストになって世界を飛び回るんでしょう?」 「こんなコンクールくらいたいしたことないよね」 控室で投げられる参加者やその親の言葉の数々に、引っ込み思案で人見知りの創一は「がんばります」としか返せなかった。だんだん怖くなった創一は急ぎ、紺色のフォーマル衣装に着替えて、トイレに行ってくると言って控室を抜け出し、今に至る。もしあのままいたらプレッシャーに負けて泣き出してしまっただろう。 周囲がどんなに褒めても、創一は自分の実力に自信がない。誰よりも上手く弾けるだなんて思ったことがない。コンクールだって父親が勧めるから出場しただけで、まさか優勝するだなんて思ってなかった。普段から言葉数が少ない創一に周囲はそれを「落ち着いた子供」と勘違いしている。それに結果が重なれば、期待は高まっていくばかりなのだろう。  実家がピアノ教室の創一は父親が教えている姿に興味を持ち、自分もピアノが弾きたいと軽い気持ちで申し出た。もともと創一の家系は典型的な音楽一族で、有名な指揮者だった祖父、オペラ歌手だった祖母、を始め、家系図を紐解けば、祖先には雅楽師もいると父に聞いたことがある。そんな恵まれた環境と血筋を持った創一がピアノを始めると聞いて周囲は勝手に期待した。 「この環境なら誰でも上手くなる。すごいのはパパの教え方で、僕じゃない」  父親に褒められることが嬉しくて続けてきたピアノも今では苦痛になっていた。コンクールで結果を出せば、次はさらに難易度のコンクールに出場することになる。その繰り返しに疲れてきた。ピアノをみんなの前で弾くのは好きじゃない。どうせ弾くなら楽しく弾きたいし、優勝なんて名誉も欲しくない。 ――このまま控室に戻らなかったら、コンクールに参加しなくて済むかな。  両膝をぎゅっと両腕で抱え、顔を伏せたそのときだった。 「もれちゃう! もれちゃう!」  トイレにバタバタと誰かが駆け込んできた。声が幼いので自分と同じくらいの少年だろう。彼は、創一のいる個室の扉をドンドンドンと勢いよくノックした。
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