5 火星に虹を

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5 火星に虹を

 アーミテイジの死後も、あらゆる試みが桐谷建設部長の発案によって敢行された。  地球で稼働停止して久しい、二酸化炭素をまき散らす旧型の火力発電所が分解され、関税やら申告手続きやらを省略した超法規的権限により火星へ輸入された。 (幸い燃料は豊富に余っていた。環境意識が天井知らずで高まり続けていた当時、化石燃料はゴミ同然であった。在庫を一掃したいオイルメジャーと公社の利害は一致し、メジャーは捨て値での売却に喜んで同意した)  海底開発のお荷物たるメタン・ハイドレートが(バーゼル条約非該当というお墨つきで)大量に輸出され、気化されたのちに火星大気へ散布された。反対派からは「俺たちは屁を吸う」とまで揶揄される始末だった。  時間だけが過ぎていった。桐谷は52歳で火星開発理事長にまで昇り詰めていたけれど、さすがにという案は反対多数で否決された。  晩年の彼は極地に住みついていたといってよいだろう。ひたすらドライアイスを融かす毎日。火星開発は気候改変以外にもすべきことは山ほどある。支持者は漸減し、78歳で理事長を引退するときの同士はわずか一名だった。  賛同者の名前はクリスティーナ・マクシミリアン。彼女は40年近く前の彗星捕獲作戦に従事した経歴を持つ筋金入りの桐谷派である(スラスターJの異変を知らせた女性でもあった)。クリスティーナは同僚であり、戦友であり、そして伴侶でもあった。 「ぼくが死んだら」元理事はハンドドリルで氷冠を削りながら、妻へ即席の遺言を残した。「宇宙葬じゃなく、火葬にしてほしいんだが」 「どうして?」 「もちろん、二酸化炭素の放出に寄与するためさ」  妻はさすがに開いた口が塞がらなかった。  桐谷薫は齢91歳の時分、皮膚がん(メラノーマ)によってその生涯を閉じた。屋外労働を好み、仮借ない宇宙線にさらされ続けた彼らしい最期であった。  クリスティーナ・マクシミリアンは正確に配偶者の遺言を執行した。桐谷の身体は荼毘に付され、棺からはひとすじの煙が絶えることなく昇っていく。  会葬者は決して多くはなかったけれど、誰もが火星開拓の偉大な先駆者の死を悼んで滂沱の涙を流していた。  宴もたけなわになったころ、クリスティーナはふと天を仰ぐ。なにか冷たいものが頬に触れた。まさかと思う間もなく、が会葬者たちを席巻したのである! あまりのことに全員二の句が継げず、しきりに瞬きするばかり。  ただ一人、伴侶だけが直感的に事態を理解していた。彼女は慈愛に満ちた表情で夫の亡骸に語りかけた。「火星に雨を降らせたのよ」  雨は始まったときと同様、あっという間にやんだ。そして会葬者たちは確かに見たのである。菫色に暮れなずむ火星大気に架かる、見紛いようのない見事な虹を。
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