3 若造、火星に根づく

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

3 若造、火星に根づく

「てっきり半月でズラかると思ってが」大男はヴァイザ内のデジタルカレンダーを確認した。「なんとね。1年も経ってるじゃないか」  二人は与圧ドーム内の農場で野菜栽培に精を出していた。低重力下、弱光、脱水状態でもある程度育つよう遺伝子編集された作物群は、フロンティアで働く人びとの生命線である。これがなければ遠からず、彼らは中世の船乗りのように歯茎から血を滴らせていただろう。  与圧ドーム内は地球同様1気圧とはいえ、人間が快適に過ごせるような温度管理はなされていない。電力は軌道上の宇宙太陽光発電パネルでまかなっているものの、肝心かなめである太陽光の弱さがたたって必ずしも発電効率は高くないという致命的な弱点があった。電力は1キロワットたりとも無駄にできないのだ。桐谷とアーミテイジはイヌイットよろしく厚着することで寒さをしのいでいた。 「もうそんなに経ってますか。あっという間でしたね」 「そろそろママのおっぱいが恋しくなったんじゃないかね」 「冗談でしょう。少なくとも夕立を降らせるまで帰りませんよ」  上司は部下の顔をまじまじと見つめた。「えっ、いまなんて言った?」  桐谷は栽培の手を止め、ヴァイザ越しに上司と相対した。「雨ですよ。ほんのちょっとでいい、火星に雨を降らせたいんです」  アーミテイジはそれから10分間、ほとんど仕事に手がつかなかった。あまりの荒唐無稽な野望に笑い転げていたのである。ようやく発作が治まりかけたところで、彼は目の端に涙を浮かべながら尋ねた。「いったいどこからそんな与太を仕入れてきたんだね」 「どこだっていいでしょう。そんなにおかしいですかね」 「ブラウン大卒のエリートに講釈垂れるのは気が進まんが、火星に雨を降らせるのはちょっとやそっとの努力じゃかなわんぞ。そこんとこはわかってるか」  アイビー・リーガーは不敵な笑みを浮かべた。「ぼくのなかで計画は練ってあります。あとはそれを実行に移すだけですよ」  大男は肩をすくめた。「そうかい。せいぜい頑張ってくれや」  アーミテイジはその日、吝嗇家の彼にしてはめずらしく後輩を居酒屋へ誘った。その店はバイオトイレ処理槽で繁殖した細菌をもとにアルコールを製造しているという公然の秘密があったけれど、火星開拓移民の荒くれ者たちのなかにそうした些事を気にかける人間は皆無であった。  桐谷薫はそうした些事に多大なる関心を払う例外的な男だったので、飲み物は控えめにミネラルウォーターを選び、大男から矢継ぎ早にくり出される質問の嵐に辛抱強く答えていた。 「するてえと、あれかい」アーミテイジはすっかりご機嫌だった。「お前さんは本気で雨を降らせたいわけだ、この湿度0パーセントに近い火星で」 「ぼくの故国では梅雨と呼ばれる小規模な雨季があって、そのあとに10日くらいいっさい雨の降らない時期があります」  ベテラン技術者は鼻の頭を掻いた。「それで」 「そのあとだいたい1か月くらいは天候が不安定になるんですけど、夕方近くにものすごい土砂降りになったりする。で、嘘みたいにやんで晴れ間が見えるんですね」  青年は幼少の時分の思い出を問わず語りに話した。ヒートアイランド現象で焦熱地獄と化した真夏の名古屋、あまりの猛暑にあごを突き出してへたばっていると、突然の雷雨が少年を襲う。たまらず商店街のアーケードへ逃げ込むと、雨は手品のようにやんでしまう。  彼はその後に見た光景を一生忘れなかった。西へ傾いた陽が鉄床雲を朱色に染め上げ、蒸発した雨が気化熱を奪うことによりほんのいっとき、風情ある涼が訪れる。  そして彼は見た。さわやかな夏の微風が吹き渡るなか、都市をまたぐように架かった途方もなく巨大な虹を。 「夕立(evening shower)か」アーミテージは手加減なしで青年の背中をどやしつけた。「俺も見てみたくなってきたぜ。もちろんこの火星でな」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!