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2.
時は太平洋戦争末期。日本中に敗戦の二文字が重くのしかかるなか、東北はS県の山奥に建てられた結核患者の隔離施設『郎銘館』の205号室では、今日も変わらず少女たちの明るい声が響いていた。
佐瀬あきは四人のなかでは、山本いのりと並んで最も年長の15歳だった。実家は東京で長く貿易の仕事に携わっており、戦争が始まってからは満州にも手を延ばすほどの名家だった。彫りが深くフランス人形を思わせる顔立ちは、男よりもむしろ女から憧れの眼差しで見られることが多かった。もっとも本人は外にいるときも、ここに来てからも周りの評価など気にも止めていなかった。
山本いのりはあきとは正反対に、良家のお嬢様そのままの姿だった。漆黒のつややかな髪に、陶器のように白い肌。その落ち着いた物腰や品格のある話し方もあって、言い寄る男は多かったが、呉服問屋を営む両親も本人もその気は少しもなかった。もっとも今となっては、何の意味もなかったが。
比較的裕福な家の出の二人とは違い、葛城結愛は地元のごく普通農家の出だった。郎銘館の元の持ち主は結愛の遠縁に当たる人間だったが、あまりに敵性文化を愛しすぎているとの理由で館を没収され結核患者の隔離所につくりかえられることになったとき、コネで結愛を潜り込ませてくれたのだ。小柄で痩せた13歳の少女はもともと大人しい性格だったが、結核に感染してからはさらに物静かになった。もはや身体を動かす余分な体力がなかったのだ。それでも決して自暴自棄にならないその健気な姿は、同室のあきたちだけでなく職員にとっても愛おしく見えていたが、それを口に出すものはいなかった。
阿津みきは結愛と同い年だったが、やや大人びた口調やその年の少女にしては長身なこともあり、よく年上に間違えられていた。長いまつ毛やきれいにそろった尼削ぎの髪型から、一見するとおしとやかな雰囲気を受けるが、実際に話をした者はその心の奥底にある苛烈さに戸惑うことが大半だった。新聞社に務めていた父と兄が、政府の不興をかい、揃って南シナ海の激戦地に送られて以降、ずっとみきの心は炎が燻っていた。
本来なら決して交わり合うことのなかった四人が、今こうして一緒に暮らしている理由はただ一つ。結核に感染しているということだけだった。この郎銘館には四人を含めて結核患者が全部で五十人、医療従事者が十人、住み込みで生活している。
結愛は三年前、あきといのりは二年前、そしてみきは半年前に、それぞれ発症していた。発熱、吐血、身体の痛みを伴うこの病気に根源的な治療法はない。郎銘館はただ患者を隔離し感染を広めないためだけの建物であって、治療が目的ではなかった。
この郎銘館を出るには基本的に死ぬしかなかった。
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