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3.

 夜中の10時。消灯時間になると、看護婦が見回りにやってくる。  症状の悪化はないか、換気はしっかりと行えているかを確認するためだった。  特に換気はこの結核の患者が多く過ごす館内にあって、必須だった。絶えず新鮮な空気を入れること、空気の流れをつくることで、館内に結核菌がバラまかれるのを防ぐ目的があった。  廊下に看護婦のトントンという足音が響く。押している台車の車輪のキーキーという音と相まって、よく聴いてみると何かのリズムを取っているようにも聴こえる。 「さてお嬢さん方、体調はどうかな?」  ノックするより先にドアを開け、大声を張り上げたのは、この郎銘館一の大女看護婦、秋野ゆな(あきのゆな)だった。 「ふむふむ。一応換気はされてるわね」  ゆなは四人の返事など待たずに部屋を見て回る。 「ほこりもなし。いいことよ。ほこりは肺によくないからね」  ゆなは背が高く恰幅のいい体つきをしていたが、その声も張りがあって、よく響いた。  少なくともゆなが話してる間、四人は口を挟もうとは思わなかった。ただそれはゆなの声や体の大きさだけでなく、ほんの少し彼女が遠くで暮らす母親に似た雰囲気があるからかもしれないと、みきは密かに思っていた。 「あんた、読み終わった新聞はちゃんと捨てなって言ってるだろ。こういうのをため込んでおくのは、ほこりや雑菌の増殖のもとになるんだよ。の餌になるしね」  ゆなはあきが床頭台の上に放り投げた新聞を手に取ると、クシャクシャにして台車に置かれた汚物入れに捨ててしまった。 「読み返したくなった時はどうするの?」  あきはどこかおもしろがっているような口調で聞き返す。 「それに大切な記事があったかもしれませんよ。問答無用で捨ててしまうのはいかがなものかと」  普段はあきの態度をたしなめることも多いいのりだったが、こういう時にはあきに加勢するのだ。   「なるほど。確かにそうだったわね。こいつは悪いことをしたわ。もしかしてあんた、想い人からの伝言でも待ってるのかい?」  ゆなが心配そうな口調で聞く。だが目元は笑っており、本気で言っていないことは分かる。 「この身空で想い人ねぇ。想われるほうも困るでしょ」  おどけた口調でそう言ったあきだったが、今度はゆながあきをたしなめる番だった。 「あんたね、いつも言ってるだろ? 先のことなんて、何があるか分からないんだから、諦めたり悟ったりしたようなことを言うんじゃないって」 「はいはい」  肩をすくめたあきを見て、いのりがほんの少し微笑んだ。  そんなやり取りが羨ましかったのか、結愛が横から身を乗り出して話しかけた。  掛け布団がはだけて結愛の驚くほど細い足が覗いたので、みきは慌てて布団を直してやった。 「もし本当に大切な記事があったらどうすればいいんですか? 机のなかにしまっておくとか? でもそれではクシャクシャになってしまうのでは?」 「スクラップをつくればいいわ」 「スクラップ?」 「そうよ。おっと、今はは禁句だったわね」  そう言ってゆなは大げさに口を覆った。その仕草が可笑しいと、結愛がクスクス笑う。   「要するに切り抜き集だね。大切な記事だけ切り抜いて、それを何か厚紙のようなものに貼っとくのさ。何枚も束ねて本のようにすりゃ、見るのも楽さね」  そこまで話したところで廊下からゆなを呼ぶ声がして、出ていった。  部屋を出る際、明かりを消していくことを忘れなかった。  部屋が暗くなると、窓から入り込む夜風が少し冷たくなったような気がして、みきは毛布と掛け布団を首まで上げた。もう夏とはいえ、山のなかにあるせいか蒸し暑さは感じない。というよりもそういう場所だからこそ、隔離所にされたのだろう。湿度は、こもった空気と同じく結核の大敵だったから。 「スクラップか……」  独り言のようにあきが言った。ただ独り言にしては少し声が高かった。 「どうしたの? 何か残したい記事でもあったのかしら?」 「そういうわけじゃないんだけどね……」  あきにしては珍しく、少し歯切れの悪い口調だった。  みきはあきが何か続けるかと思ったが、結局いつの間にか穏やかな寝息が聞こえてきたので、そのまま眠りにつくことにした。少し冷たすぎる夜風だったが逆にそれが気持ちよく、みきはすぐに眠り込んだ。  もっとも1時間後にはいのりと結愛の二人が急激に咳き込んだため、一晩中あきと二人で背中をさすってやるはめになったのだが。
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