龍雲

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雨が降ったら、いいことがある。 雨が降り続けたら、良くないことが起こる。 ほんとうかしら、と私が訊いたら、知らねーよ、そんなの、とあの人は言って、 「まあ、雨が降りすぎて洪水とかになったら困るよな、川の氾濫とかさ」と軽く笑ったのでした。 雨が止んだら、いいことがある。 雨が止み通しであれば、良くないことが起こる。 そうかしら、と私がつぶやくと、どーでもいいよ、そんなこと、とあの人はまた言って、 「そりゃあ、カンカンの日照り続きってなことになれば、この世の生きものはみーんな、そのうち、あの世往きってなことにはなるんだろうがな」 あの人は、また少し笑って、アンタはヒマだな、とわたしのひたいを指先でこっついて、好きだよとキスをしました。そして、じゃあなと仕事に出掛けました。 あの人と暮らし始めて、半年になります。 その間、雨降りの日はどれほどあったのでしょう。 ¥100ショップで買った双眼鏡を両目に当てて、私は部屋の窓から、遠くを眺めます。もうじき雨雲がやってくる。 高層住宅8Fの窓に向かって、雲は最初黒々とした渦を巻き、龍の形そっくりになって、こちらに向かって来る。 あ、あ、あと私は我が身を小さくしました。そうしないとそっくり我が身を攫われてしまうと恐れたから。 雨が降ったら、いいことがある。 雨が降り続けたら、良くないことが起こる。 雨が止んだら、いいことがある。 雨が止み通しであれば、良くないことが起こる。 呪文のように唱えていると、もっともっとというぐあい、黒々とした雲はこちらへと近づき、どうしたものか龍の形を更にくっきりさせると、とうとう、口まで利いたのでした。 「お悩み、ですね。お嬢さん。わかっていますよ、わたしには」 「はぁ」 「いや、強がらなくてもよい。すなおでいなさい」 「はぁ」 はぁはぁとの呟きの繰り返しを、龍の形をした雲は溜息まじりの嘆きと解釈したのか、もうすっかり目の前まで近づき、雲というより全部が全部龍そのものとなって、その口をとがらせ、 「さあおいでなさいな、あなたのお悩みなんてものは、このわたしが、あっという間に解決してあげましょうぞ」と私をつまみ上げるようにしてくれました。そして、 「こんなことをしているが、これは誘拐なんぞではない」ともっともらしい声を上げます。すっかり龍の形をしているものの、やっぱり雲は雲だけのことはあって、私はふわふわと何やら心地よい綿毛に体をすっぽりくるまれているようなイイ気持になりました。 「ああ、こうしてもらっているだけで、お悩みが消えて行くような気がします」 「そうでしょう。そうでしょう」 龍の形をした雲は何度も頷き、私を懐に抱いて、空を飛びます。 ああ、イイ気持。ホントにいいキモチ。 そのうち、私は不思議なことに気づきました。 どうしたことでしょう、黒々とした雲のはずなのに、見下ろす雲の下は、呆れるように晴れています。私は訊ねずにいられませんでした。 「雨は降らさないのですか?」 「安心しなさい。もうじき、ドバッと一度に降らせてみせますからな。そう、ドバドバッと」 龍の形をした雲は余裕たっぷりに頷き、 「ほら、ごらんなさい。傘も持たずにひたすらにひたむきに地上の道を歩いているあの男性、あのお方を標的とするような雨をドバドバッとも降らせてみせましょうぞ」  力強い声に煽られ、また地上を見下ろした私は、あっと息を呑む思いがしました。あの男性とは、私のあの人なのでした。少々猫背気味にセカセカと両手を振っての歩き方。私はお願いせずにいられませんでした。 「少しの間だけでいいですから、雨は降らさないでください。あの人は傘を持っていません、折り畳み傘はバッグが嵩張るからと言って、入れたがらないのです。」 龍の形の雲は、コホンと一つ空咳のようものをしました。 空咳でも、尾っぽに当たる部分はぶるんぶるんと大きく震え、台風の卵でも巻き起こしそうな力強さ、一度に大雨になってもおかしくはないと私は恐れました。 「待ってください。お願いです。もう少しでいいですから、傘を持たないあの人も悪いですが、何しろ、これから会社に向かっているのです。決算期を迎えて、残業に次ぐ残業、 睡眠不足が続いていて、傍から見ていても気の毒なくらいです。せめて雨に濡らさないで、会社まで行かせてやりたいのです」 ふーむ、とまた龍の形の雲は、溜息にも似た声を洩らしました。今度は、喉の辺りが大きく揺れて、 「あなたは、お人よしですね」と皮肉な調子でもなく言いました。 「お人よし?」 「そうですよ、オ・ヒ・ト・ヨ・シ」 返事が出来ず押し黙る私の顎を、龍の形の雲はつまんで、地上を見るようにとまた促します。仰せ通りにするしかない私の目が捉えたのは、最寄りの地下鉄駅への下りの階段口に今にも吸い込まれて行きそうにも、やっぱりひたむきにひたすらに歩いているあの人の姿です。と、その思いは、あれっと裏切られました。あの人は、階段口を素通りして、まっすぐ地上の道を歩きます。ドンドンドンドン歩いて行くのです。 「あ、あなた、何処に行くの。会社はどうしたの」 思わず声を発しないでいられない私に、龍の形の雲は、また一つコホンと空咳のようなものをして、こうして見るべきものをあなたは見るのだ、と冷徹に言い、その先のあの人の行方を追わせます。 あの人は、飛ぶようなスピードで歩道を歩き、二つ目の角を曲がった所にある3階建てのハイツへと入ってきます。もう、2階の角部屋にとその身を入れます。「 龍の形の雲は、私に全てのものを見せつけます。 一室の中には、女の人が一人いて、入ってきたあの人の首にすぐさま、長い両手を巻き付けて笑いながら、話しかけるのでした。 「あーら、いつものお越しを、アタシは嬉しく思うのだよ」 「きみのそんな言い方が、僕はとってもスキスキだよ」 「あーら、アタシも、あんたのそんな言い方が、とってもとってもスキスキだよ」 それから、二人は当然のようにキスをし合って、スキスキだよスキスキだよと言葉を交わします。 打ちのめされる光景を、私はこうも見せつけられているのです。 どうして、こんな目に遭わなくてはならないのだろうと、龍の形の雲を横目で睨みつけるようにすると、見るべきものを見る、それが全ての定めだ、そうやって、あなたはヒトとして成長するのだとまた冷徹な言葉をくれ、ハイツ内の光景を容赦なくも視させるのでした。 二人はこんなことを話しています。 「あーら、ところで、あちらのシュビの方は、どんなぐあいなのかしらだね」 「シュビ? ああ首尾か。まあまあ、うまいこといってるよ。何しろ、あの女は、僕に惚れ切っているからね」 「あの女の財産というものは、頂けそうなのであるかいね」 「ダイジョブ、ダイジョブ。まかせとけって」 「ここまで来たら、やるべきことを、アンタはやるしかないのだよね、そんな風だよ。何しろ、あんたは本気なんだからね。会社まで辞めて、そう、ハイスイのジンをしいて、新しい会社を興そうとしているのだわね。」 「わかってる。そう、僕は長年勤めた会社を辞めて、自分の会社を持つ。社長になる。相棒のあんたが、副社長、いや、偉い偉い会長さんかな」 そこまで話した二人は、急に黙り、しっかと抱き合って、キスを交わす。スキスキスキだよと何度も何度もキスを交わしました。 ――見ちゃあいられないわよッ。 私は、叫びました。おおきな声が出過ぎて、龍の形の雲が、もろくも崩れていきそうなほど、しかしさすがに龍の形の雲は強く、すぐにも私を抱きしめるようにも態勢を盛り返します。そして、言いました。 「気持はわかるが、やっぱり見るべきものは見、そしてこれからの人生について、あなたは考えなければならないのだ」 「と、言われましても」 私は思わず言葉を失ってしまいました。まとまった財産というものを私は確かに持しています。土地持ちであった親の遺産を、一人娘である私が引き継いだわけで、そしてそのことをもちろん、あの人は知っていますが、これまで、オカネの無心などされてことはありませんし、僕がきみを食わせるんだ、それが僕のお役目だと毎日の残業もいとわず、毎日仕事に励んでいるはず……と信じていた私なのでした。 ハイツの一室内では、二人がまだまだと抱き合っています。スキスキスキとキスも交わしています。泣き出す私に、ここまで見せてしまってごめんよと龍の形の雲は謝りました。 「いや、しかし、ここまで見せてしまったからには、わたしにもかんがえがあるのだ」 「かんがえ?」 「そうだとも。見るべきものを見てしまったあなたが、やるべきことは一つ」 「何でしょう?」 「復讐だ」 その日から、何日も何日も雨が降り続きました。 あちこちで大きな被害が出、死者や行方不明者の数も増えて行くばかりです。 「心配だわ」 私は、あの人の横顔を見ながら、呟きました。 「とっても心配だわ。あの土地が。私が親から譲り受けた大事な大事なあの土地が」 あの人は、ふっと顔を曇らすようにしましたが、ふふっと笑うような表情にもなって、 「心配性だな。どんなに雨が降ったって、洪水が起こったって、土地そのものが流されるものでもないだろう。地主さんのきみは、堂々と雨が上がるのを待っていればいいんだよ」 「そうかしら、でも、やっぱり心配なんだけど」 「じゃあ、見に行ってみようか」 「そんな。まだ雨がジャンジャンと降り続いているわ。電車だってバスだって動いていないし、飛行機だって欠航中なのよ」 「そりゃあ、そうだな」 あの人はそれから、「ま、そのうち雨は止むよ。そのうち、晴れるよ」と気軽に言って、私を屈託なく抱きしめました。 それから数日後、雨は止んで、晴れ間がのぞくようになりました。 あの人は会社に出掛けます。いえ、そうではなく、あのハイツの一室に住む女の人の所に行くのだと私は確信します。あとを付けて行こうか。でも、そうしてしまえば、とんでもないことをわたしは仕出かしてしまいそうです。 「見るべきものを見てしまったあなたが、やるべきことは一つ。復讐だ」と言われたことが頭に去来し、私は出刃包丁なりを持って、あの人の後を追って行きそうな切迫感に駆られていきます。 「待ちなさい」 すると、空から、声がしました。 龍の形の雲からのものに違いありません。 「あとのことは任せておきなさい、すっかりわたしにお任せなさい」 「お任せしてもいいのですか」 「ああ、それでいい、それでいいのです。わたしは、あなたを牢屋になどぶち込ませたくはない、ないのですから」 慈悲深い声に、こうべを垂れるばかりの私を、龍の形の雲は懐にかき抱いて、空を飛びます。さっき会社に行くと言って出掛けたあの人は、案の定、あのハイツへと向かっています。その、あの人めがけて、龍の形の雲は、雨を降らせます。 空は晴れたままなのに、あの人の周りだけが見る見る暗くなって、雨は洪水となって、瞬く間、あの人の姿を見えなくしました。 雨が降ったら、いいことがある。 雨が降り続けたら、良くないことが起こる。 雨が止んだら、いいことがある。 雨が止み通しであれば、良くないことが起こる。 あの人がいなくなって、一人になった私は、それからの日日、朝から晩まで、呪文のように呟き続けています。 雨が降ります、止みます。また降ります、また止みます。 龍の形の雲は、あの人を攫って行って以来、姿を見せません。 雨よ降れ。 私は呟いて、そっと悲し気な様子の顔をしてみせます。 頬に伝うひっきりなしの液体らしきものは、涙でしょうか。 それとも、また降って来たような雨の最初のヒトしずくでしょうか。 わからないまま、私は、空を見上げます。 晴れた空に、ムクムクと雲が湧いてきて、私は、ああと縋るようにその姿かたちを視ますが、すぐさま雲は消えます。 気付けば、私の頬はまた濡れていました。 ああああ、これは涙だ、雨でなく自分の心と体の裡からあふれる涙なのだとはっきり判る私は、また空を見上げ、さっき消えた雲の行方を追っていました。
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