1 空も飛べるはず なぜなにの子供

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1 空も飛べるはず なぜなにの子供

スピッツの楽曲にSSを書く 1 空も飛べるはず なぜなにの子供  その声は藍のグラデーションで響く。やわらかく深く、水のようにどこまでも青い。 「なんで『空も飛べるはず』なの? なんで『はず』? 空って飛べるじゃん」  娘は前の世界の歌を聴いて、ふしぎそうに私に首を傾ける。娘はこの世界で生まれた。空気が薄くて空を飛べなかったころの記憶が始めから存在しない。 「前はね、空を飛ぶためには金属の羽が必要だったんだよ」 「あんな重いもので? ありえない」  娘は椅子に両手をついて足をパタパタさせている。黒く焼けた膝の丸さと、裸足の足。土を踏むのが大好きな娘の、棒きれのような足だ。 「君と出会った奇跡になんで驚くの? なんで奇跡? 会った瞬間にわかるじゃん、そんなの」 「前の世界はね、人の心が隠されていてわからなかったの」 「お母さんも、お父さんのことわからなかった?」 「最初はわからなかった。お父さんは、初めから知っていたみたいだけど」 「わからないってなに?」  前の世界の話になると、娘は眉間に皺をよせて、ありえないという顔をする。 「心が身体に隠れていて、空気から切り離されているの。だから形にしないと、思いが伝わらないの」 「じゃ、ずっと目隠しで、他人が何を考えてるかわからないってこと?」 「そうだね」 「そういうゲームなの?」 「そうかもしれないね」 「だから戦争とかしちゃうんだ」  この世界では誰の心も水のなかで繋がっていて、誰もが互いを思いやっている。瞬時に心が繋がってしまうので、この世界には悪い人がいない。 「前の世界では、お父さんとは心が離れていたの。川の両岸みたいに、底で繋がってはいたけれど離れてた。だからずっと不安だったな。お父さんの心が知りたくてね」 「ありえん」 「それがふつうだったんだよ。今はわかりすぎて、ときどきお父さんから離れたくなる」 「それはわかる。お母さん、ときどき頭のなかに引きこもってるもんね」  娘は人の悪い笑みを浮かべて私を見上げていて、私は理解されすぎるのも嫌だなと思う。娘たちは生まれたときから人と繋がっているので、自分の頭のなかに避難所をつくる必要もないのだ。 「お父さんが運命の人だって、最初はわからなかったんだ」 「わからなかった」 「じゃ、最初はどう思ってたの?」  鳥の残像のように、記憶が私の視界をかすめて去っていく。遠い日、午前中の白い陽光のなかで、シャツに光を孕ませて立っている背中の記憶。 「たたずまいがきれいな人だった」  娘も心のなかで、あの日の同じ背中を見ている。 「この人はひとりでなんでもできるし、どこにでも行けるけれども、誰かがこの人のそばにいて、心を支えてくれたらいいなってずっと思ってた」  あのときの私は、それが自分になるとはまったく気づいていなかった。触れることのできない、遠いもののように感じて、どこか気後れした思いであの人を見ていた。 「奇跡にするために、わからないことにしていたの?」  娘は鼻の頭にしわを寄せて、私を不審げに見上げている。変なの。娘の声が頭のなかに響く。 「ふたたび見つけるために、忘れたことにしていたの?」 「そうかも」 「めんどくさい」  娘は両膝にひじをついて、おおげさに溜めた息を吐き出した。 「わけわからん」  私が苦笑すると、娘は咎めるように私の口元を指さした。 「笑いたくないのに笑わないで。悪い癖だよ」  娘は心と一致しない行動が嫌いだ。いつも見抜いて、私を小うるさい教師のように叱っている。 「お母さんの生まれたころって、めんどくさかったんだね」 「そうだね」  口元に自然な笑みが浮かぶ。  あのころは、わからないことに悩みながら、わかるのかけらを探し続けていた。心の岸辺に打ち寄せる漂着物を拾い集めて、星のようにつなげて自分の星座をつくっていた。  今はもう、あのよるべない感じを心に乗せることはない。が、ときどき頭のなかに引きこもって、さびしいとはなんだろうかと、心の軌跡をトレースすることがある。 「孤独を感じるために、あそこにいたんだと思う」 「孤独ってどうだった?」 「冷たかった」 「孤独じゃないって、温かいこと?」 「そうだと思う」  娘は私の顔をじっと覗き込んで、和んだような笑みを浮かべた。 「お茶にするハーブを摘んでくるね」  娘ははずみをつけて椅子から立ち上がると、裸足で部屋を出て行った。お湯に溶ける、金色と緑の透過光が目の裏をかすめる。  娘は私の孤独に共鳴したのだろう。なんでも吸い込んでしまう娘に、私はいつまでもかなわないなと思う。  娘はこの世界を冒険するために生まれてきた勇者だ。赤ん坊のころは、私たちを全身で温めてくれる、美しい愛情のかたまりだった。  この世界であの人と娘を育てる未来を、あのときの私は忘れていた。  奇跡にするために忘れていたのかもしれない。  ワルツを踊るように爪先を投げ出して、私は床に大きな円を描いた。  らせんを描く星の軌道を、私は今辿り直しているのだ。
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