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3 未来コオロギ サンクチュアリ
スピッツの楽曲にSSを書く 3 未来コオロギ
サンクチュアリ
会社に届いた興信所の報告書を開く。二十二時、仕事の電話が鎮まってからの作業になる。
定期的に届く妻の浮気調査の報告書に、妻の親友の名前が記載されるようになった。三ヶ月前、能の観劇を終えた帰りのカフェの写真で、妻は自分が見たこともない、少女の羞じらいの笑みを親友へ向けていた。
妻の大学時代の親友である彼女にも夫がいる。妻とその親友で蓼科の別荘へ一週間旅行するのが、妻のささやかな息抜きだった。
一年に一回、一週間の旅行。妻はそこで、母親であることを忘れて学生時代の自分に戻りたいと言っていた。二児の母親になってから、妻は自分との営みを拒否するようになった。その代わり、自分が誰と浮気しても、妻はそのことには何も触れない。
限りなく恋人に近い雰囲気の、同性の友人との写真。興信所の調査員は、自分が別荘での妻を追跡してほしいと言ったとき、訝しげな顔をした。彼は自分が考えすぎていると思っていたのだろう。しかし、妻の表情を毎日見ている自分にはわかる。
妻の静かな顔にいつもかかっている、淡いもやのような翳りが、その写真にはない。
妻が自分と望んで結婚したわけではないことは、始めからわかっていた。互いの家の事業を拡大するために、あらかじめ定められた道だった。自分にも妻にも家に逆らう意気地がなく、妻の大学卒業後に式を挙げた。
これから親戚となる人々の酔態を、自分は別世界の生き物を見る目で伺っていた。今後自分が彼らに頼ることはないだろうと、作り笑いの奥で考えていた。
妻と結婚した理由を聞いて、浮気相手は軽蔑したような顔をした。「条件が一番合っていたから」。若い彼女には、自分の行為がふがいない打算のように見えたのだろう。
彼女は本当に愛せる人を見つけると、何のためらいもなく自分のもとを去っていった。以来中指にしか記憶が残らない女だけを抱くようにしている。
報告書には七日間の妻の行動記録と、写真がまとめられていた。観光にも行かず、きらびやかな買い物や食事にも縁がない、一週間の記録だった。穏やかな休日だったのだろう。蓼科から帰ってきた妻の頬には、内側から鈍く発光するような光が載っていた。
一瞬で溶けてしまう雪のはかなさで、淡い光は消えていった。妻には自分に手の届かない心の領域があるのだと、胸が苦しくなる。
一枚の写真に目を止めた。妻と親友が街の回廊を歩いているスナップ写真だった。
淡いグレイの壁に、天井からパステルカラーの光が点々と降り注いでいる。三角や楕円、星のような砂粒の光は、回廊の天井に細工された色ガラスによるものだった。
カラフルな雨のように落ちる光のなかを、妻と親友が笑いながら通り過ぎていく。妻の長い髪が風を孕んでふんわりと広がっている。
その風を、その光を、同じ場所に立って感じたかった。
その笑顔を向けられたのが自分であったなら。
誰もいないオフィスに車のクラクションの音が流れていく。
結婚して六年、初めて妻に恋をした。わけのわからない焦燥感に駆られて、一点の染みもない妻の浮気の痕跡を探し続けていた。
自分を静かに拒絶する理由を、何としても探さなければと思っていた。
同じ空間に住んでいるのに違う階層に佇む妻の細い肩を思い出す。
少女から大人に帰ってきた妻の手を、自分に取る権利があるだろうか。
あの淡い翳りを払う方法を、見出だすことができるだろうか。
スマートフォンを取り出して、電話帳を開く。
中指てしか覚えていない女のアドレスを開いて、次々と削除していく。
指の腹から白い光が煙となって舞い上がる。電子の記憶が水辺から解き放たれて、空に羽ばたいて消えていくのが見えた。
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