雨よ流せよ、愛し子の過去

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 お前はとてもいい子だから、わたしから離れていくことはないだろうと思っているよ。だけどね。だけどねぇ。 「カサネは俺の許嫁だったんです。生贄以外の何でも差し出しますから、どうかカサネだけは帰してください」  あんなことを言う、若い男が来たものだから。 「カサネには幼い頃から苦労をさせました。老いた命しか差し出せませんが、どうか、どうか、生贄であれば、私ども二人と取り替えてください」  老いさらばえた男女二人が、こんなことを言うものだから。 「カサネ姉ちゃんがいないとさびしいよぅ。遊んだってつまんないよぅ。神様、お願いだからカサネ姉ちゃんを返してよぅ」  幼い子供たちが、涙ながらにこういうものだから。  わたしは怖くなってしまった。  お前は、わたしのそばよりも村へ戻ることを望むのではないかと。  雨の降らぬ土地なぞ捨てて、村の皆で新たな土地へ行くのではないかと。  だから、だからねぇ、雨を降らせてやったよ。お前と村の者たちが望むとおり。たくさんの、今までの分を取り戻すような雨を。 「あら、雨」  社の外へ出ようとしたカサネが、驚いた声を上げる。鼻の先に雨粒が当たったのか、天を見上げている。社の中にいたわたしは、手を振りカサネを引き戻した。外にいたカサネが、瞬きのうちにわたしの腕の中に収まる。 「雨に濡れては体を壊す。鳥たちと遊ぶのは明日におし」 「でもまだ降り始めたばかりです」  腕の中に収まったカサネが、残念そうに外を見る。わたしは「だめだよ」とカサネの頭を撫でた。 「お前は〝人〟なんだから。いったい何がきっかけで悪くなるかわからない」 「神様ったら。私はそんなに柔じゃありませんよ」  そうだろうね。雨の降らぬ土地でも健気に畑を耕していたお前だもの。多少のことでは体を悪くしないだろう。だけど心はどうだろう。  わたしが降らせた雨のせいで、村が流されたと知ったなら。  わたしが降らせた雨のせいで、生まれ育った村が消えたと知ったなら。 「外へ出ようとするたびに雨が降るなんて……神様、わざとですか?」 「そんなわけないだろう? 可愛い嫁御に、どうしてそんな意地悪をしよう」  カサネの頬がぽぽぽと染まる。元気の塊のような我が妻は、わたしの腕の中、顔を伏せ大人しくなった。その隙に、私は天を見上げ雨を降らせる。  雨よ降れ、雨よ、すべてを押し流すほどに降れ。  〝家族(なかま)〟をなくしたこの子が悲しむこともできぬほどに。雨を降らせたわたしを恨むこともできぬほどに。過去を失いわたしに縋ることしかできなくなるほどに。  雨よ降れ。雨よ、降れ。
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