琥珀の夢

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   あの日から、母は母ではなくなってしまった。  死んだ父親のことを「おとうさん」とは言わず、「あのひと」と言うようになったし、言葉遣いも幼く聞こえた。  それは、医者曰く、記憶障害のひとつらしい。  どうやら、母は父と結婚して間もないころにタイムスリップしているようだった。  俺のことは、父の会社の同僚だと思い込んでいる。  だから、俺もそう振舞い続けている。  母にこれ以上のストレスを掛けるわけにはいかなかった。  いつか戻ると信じて見舞いに来ているが、正直、希望はない。  でも、もうそれでもよかった。  それで少しでも母が平穏で暮らせるのなら。  しばらく続いた無言の病室に「すこしだけ……すみません」と母が漏らす。  そのまま静かにベットに背をあずけ、目を伏せた。  訪ねた時から目を覚ましていたこともあり、もう体力の限界なのかもしれない。  「横になろうか。……窓、締めておくね」  広げた和菓子を片付けて、袋に詰めなおす。  胸元まで毛布を引き上げ、少しだけ背もたれを下げてあげれば、伏せた瞼を薄く開いて俺を見つめた。      「……うん?もしかして暑い?」  多くを語らない母に、こちらから話しかける。  母は頷きもせず、俺の瞳を見つめた。  しばらくすると、開いた口から言葉が形作られる。    「……あのひとのこと……これからも……よろしく、お願いします……」  途切れ途切れの小さな声で紡いだ、必死の言葉。  最後の方は、掠れて上手く声になっていなかった。  言い終わるとすぐに瞼は閉じられ、呼吸と共にゆっくりと胸が上下する。    どんな気持ちで、何を思って言ったのかは分からない。  でも、そんなことを言うのは入院後、初めてのことだった。    他人から見れば、哀れみを感じる言葉かもしれない。  けど、俺にとっては違っていた。  そっと母の手を取る。  しわが深く刻まれた、硬く、乾いた手。  いつの間にこんなに小さくなってしまったんだろう。    気づいた時には、いつも遅い。  だからこそ人間、何度だって後悔する。  「これから……か」  母が俺に伝えてくれた言葉。  それは、息子の俺に対してではないかもしれないけど。    それは確かな、未来に向けた言葉だった。    また一粒、煌めく宝石を手に取って口に運ぶ。  ふたつめの琥珀糖はやっぱり甘くて、少ししょっぱかった。
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