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雨の日が好きな優奈だが、晴れて欲しい日も二週間に一度だけある。中学一年の時から通っている、心療内科の診察の日だ。病院は、自宅からバスに乗って、三十分ほどで行ける場所にあるが、濡れた傘を持ってバスに乗るのは、憂鬱だった。 ーー心療内科の診察の日に限って雨やわ……。ついてない……。 いつも通りの診察を受けて、薬局で薬をもらって、帰ろうとした。その時だった、薬局の横に趣のある石畳の路地があるのに気づいた。 ーー前は気づかへんかったわ。昔懐かしい感じ。 優奈はためらったが、路地に足を踏み入れてみた。路地沿いには、べんがら格子の古い町家が並んでいた。路地を入ってすぐのところには、お地蔵さんのお社があって、仏花が飾られている。路地は意外に奥深い。洒落た提灯が飾られている料理店、ガラス障子がレトロな雑貨屋、もちろん普通の住居もある。どんつき、つまり突き当りまで歩くと、そこは木枠の飾り窓があるギャラリーだった。 ギャラリーの一階の飾り窓には、一枚の絵が飾られていた。雨に濡れた蔦の葉が描かれている。雨に濡れた蔦の葉や葉の上の雨粒から、静けさがあふれ出し、聞こえて来るのは雨の音だけのように優奈は感じたのだ。なぜか優奈はその絵に惹きつけられ、ものすごく人恋しい気持ちになったのだ。 優奈が絵に見とれていると、ギャラリーから穏やかそうな初老の男性が現れた。落ち着いた色のシャツとチノパンツを上品に着こなしている。白髪が目立つ髪は、短く刈り込んでいる。 「中にも絵を展示してるし、良かったら見て行って」 「そやけど、買わへんし……」 「かまへんよ、絵も、見てくれはる人がいはる方が喜ぶやろし」 入口を入ると、京町家独特の通り庭と言われる通路があって、通路の片側の座敷にたくさんの絵が展示されていた。優奈は靴を脱いで座敷に上がり、絵を見て回った。展示されている絵は、色鉛筆画も水彩画も優しいタッチだ。どの絵も雨に濡れた植物や雨の日の風景が描かれている。雨に濡れた紫陽花の絵は、花にできた雫が一粒一粒、描かれている。雨の街角を描いた絵は、地面をハネる雨粒や濡れた地面にできる水の輪が、丁寧に描かれていた。 「この人も雨の日が好きなんかな?」 「そうやったんやろうな。雨の日の絵ばっかりや」 「あ、すいません。大きい声でひとりごと言うたし、聞こえてました?」 「ああ、そやけど、雨はええね。街中の埃も、心の中の埃も、洗い流してくれるしな……」 ーー雨が心の埃も洗い流してくれる。そんなん考えたこともなかった。 ーー私はただ、近所の人の立ち話や子どもが騒ぐ声を聞かんでもええし、雨が好きなだけやったわ。 「おじさん、絵を見せてもろて、ありがとうございました」 「また、おいで」 「私、ほんまは絵を描くのも好きなんです」 「そうなんや。月二回、色鉛筆画の先生がここへ教えに来てくれはるねん。良かったら、おいで」 「はい、ありがとうございます」 優奈はおじさんにお礼を言って、ギャラリーを出た。 飾り窓にある、雨に濡れた蔦の葉の絵と、 「雨はええね。街中の埃も、心の中の埃も洗い流してくれる」 ということばが、優奈を見送ってくれたのだった。
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