倒れ伏した駒

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倒れ伏した駒

 消しゴムが床に転がるのが見えた。  机から落っことした女子の方を見る。友達との歓談中で気づいている様子はない。正直迷いはしたが、そのままにしていると消しゴムは誰かに蹴られたり踏みつけられたりするかもしれない。そしてもし、俺がその消しゴムの存在に気づいていることを他の誰かが気づいていたら、どうして拾わなかったのか、と後で俺が糾弾されるかもしれない。  保身をただ一つの動機として、俺は椅子からやや体をずらし、床に落ちたその消しゴムを拾う。名前も覚えていないその女子の背中に対して、何て言葉をかけていいのか考えていると、歓談している中の1人が俺の存在に気づいたのか、あ、消しゴム拾ってくれてるよ、と声を上げる。  落とした女子が振り返ったので、彼女の表情を見ることができた。気持ち悪がっているわけではない。が、少し驚いたような顔だった。 「ごめんね、ありがとう」  彼女はそう言うと、俺の手から自分の消しゴムを受け取る。何故だか、何となく申し訳ない気持ちがした。理由はよくわからないが、気詰まりになった。彼女の驚きの理由はよく分かり、多分正当なものだった。普段誰とも接点を持っていないような男子がいきなり自分の消しゴムをつまんでいる、というのは大なり小なり違和感を覚える人もいるだろう。  休み時間の終わりを知らせるベルが鳴る。彼女と歓談していた友達はめいめい散らばっていく。欠席者のものを除く全ての椅子にクラスメイトたちが座っていく。だが私語は止まない。どこでもそうかもしれないが、学生というものは教師が授業を始めるまでは喋り続ける。そんな些細なことを苛立たしく思ってしまう自分がややおかしいのだろう。  窓際の席に座っているので少し首を動かすと、曇天が目に入ってくる。曇りでは駄目だ、と思い、授業時間中にはいけないことだと分かっているが、ポケットからスマホを取りだす。天気予報のアプリを起動し、午後の予報を確認する。降水確率が80%になっていて、ほっとする。霧雨でも、ゲリラ豪雨でもいいからぜひとも雨が降ってほしかった。  6時間目の現国の最中に降り始めた弱い雨は、少しだけ勢いを増しながら下校の時間帯にも降り続けていた。  傘をたたく雨の音を聞きながら俺は歩く。登下校に使っている地下鉄の駅とは少し外れたところにある喫茶店にたどり着くと、いつもの通り、雨の日割引が行われていることを知らせる黒板が店先に置かれていた。心の中でガッツポーズをしながら店内に入る。相変わらず、客はいなかった。 「いらっしゃい。空いてる席にどうぞ」  ややなよっとした印象のある店主から挨拶されると同時に、俺はブレンドコーヒーを注文する。メニューを見る必要もない。この店で一番安いのはそれだと知っている。もらっている小遣いは、それほど多くない。  席についてしばらく待っていると、湯気を立てたコーヒーが机の上に置かれる。ミルクと砂糖を入れて、飲み始める。ようやく人心地がついた気がする。無意識のうちに力の入っていた肩から、緊張が少しずつ溶け出していくのが分かった。  相変わらず、やや薄暗く、じめっとした印象を覚える。内装については知識がないので何となく中世っぽいという印象しか持てないのだが、チェーンの喫茶店が持つような現代的なセンスも全くない。照明なんてすぐに変えられるだろうから、恐らくこういう一般受けをしなさそうな雰囲気は意図的に作られている。  店の端にはプレイOKとポップの書かれているボードゲームもいくつか置かれているが、それも恐らくは海外製のややマニア向けのものような気がする。箱のデザインが奇抜というのか、見慣れたものではないし、何より箱に書かれている文章に日本語が入っていない。それも含めて店主の趣味なのだろう。実に好都合だった。  今の俺にとっては最高の逃げ場所だった。センスが尖りすぎているせいか、雨の日は誰も来ないのだから。  通学鞄から読みかけのライトノベルを取り出し、栞の部分から再度読み進める。ページをめくりながら、偶にコーヒーを飲み、店の入り口の方に目を向ける。スマホもたまに見る。何も連絡が入ってこなくてほっとする。  物語に没頭しようと頑張っている時に、母の失望した顔が脳裏に蘇ってくることがあり何度か胸が痛む。  高校受験に失敗した俺に対して、3か月経った今でもずっと気を遣っている母の姿も思い出し、息苦しさも覚えた。  ページをめくる手はゆっくりとしたものだった。没頭できない腑抜けた自分を何度も自覚し、そのたびに店の壁につるされている時計に目を向けてしまう。帰らないといけない時間までは、まだ大分あった。  店の外の車道を大型トラックが走る音が聞こえる。視界内に店主以外の人間がいなくても、音まではそうはいかない。俺が疲れて静かな空間にひきこもっている間、世間はそんなものに斟酌することもなく動き続けていて、そんなことにすら苦しみを覚え、危うくうめき声をあげそうになってしまう。  前髪をいじりながらようやく5ページほどを読み終えたところで、カランカラン、とベルが鳴った。眉間に皺が寄るのを意識しながら、入口の方を見る。男子2人、女子2人のグループで、制服を見て、どこの学校かまですぐに分かった。ここからそう遠いところにないやや偏差値が低めの学校のもので、そのことに気づいた瞬間、嫌な予感がした。 「いらっしゃい。空いてる席にどうぞ」  店主はキッチンから微動だにしないまま、彼ら彼女らに声をかける。先頭を歩いていた黒髪の真面目そうな男子が空いているテーブルに腰を下すと、残りの3人も当然座る。机の上に置かれているメニューを開き、各々考え始める。ぺちゃぺちゃごちゃごちゃ話しながら。 「私、ブレンドでいいや。今月お金ないし」  地毛なのか染めているのかよくわからないぐらいの茶髪の女子の1人がそう言う。じゃあ俺も。私はケーキも貰う、どうせ割引だし、と次々と注文が決まり、結局彼らは店主にブレンドコーヒー4つと、チョコレートケーキをオーダーした。  会計を別にする限り、いちいち注文内容は報告しあうようなことではない気がするのだが、そもそもグループ内での会話なんて、明確な目的があることの方が珍しいので、あれこそまさに「友達とのお茶会」なのだろう。早く帰ってほしい。 「大輔。ボドゲってどこにあるの?」  女子の1人がそんなことを言ったため、これは居座るな、と俺は覚悟する。いつの間にか肩にまた力が入っている。冷めきったコーヒーを飲んでその力を抜かせられるか、試してみる。 「ああ、そっか。店長、ボドゲ使いますね」  大輔と呼ばれていた真面目そうな男子が店主にそう告げると、店主はやや無愛想に首を縦に振る。大輔はそれを見て取ってから、ボドゲの箱を1つ手に取って席に戻る。 「へー、見たことのないようなやつだね。ルールとか分からないけど、大丈夫?」 「大丈夫大丈夫。一応日本語で説明文もついているから」  大輔は箱の中に手を突っ込み、ゲームを出しながら1枚の紙も取り出す。遠目からでもその紙が正式に業者が作ったものではないということが分かる。A4用紙1枚にテキストエディタで打ち込んだ文章を出力しているだけ、という体だった。恐らく書いたのは店主だろう、と思いながら店主の方を見てみると、彼は4人の方をやや心配そうに見ていたので、俺の読みは外れていないのだろう。  4人はきゃいきゃい騒ぎながら、ルールの文章を一通り確認してからプレイし始める。要するに海外製の双六なのだな、とプレイ内容をチラチラ見て、俺は結論付ける。加齢や結婚や就職の概念もあるらしく、4人が操っているそれぞれの駒は盤面を行ったり来たりしていた。一定の条件を満たせば監獄や戦場というところにも行けるようで、随分とまあひねくれたやつが作ったものだ、と呆れてしまう。  先ほどまで自分1人しかいなかったはずの空間にいきなりどかどか入ってきた彼らを、鬱陶しくないと思うのは無理があった。でも、そもそもこの店のコンセプトに合っているのも彼らのような気がして、俺が文句を言いたくなること自体憚られた。雰囲気で、店主が少し嬉しそうにしているのが伝わってくる。客に自分の好きなものが広まっていくのは、見ていて気持ちがいいのだろう。昔、自分の好きな小説のことを友達に話していた時のことを思い出した。  運ばれてきたコーヒーを飲み、1人はケーキを食べながら彼らはプレイし続ける。随分と厳しいゲームで、一応ゴールはあるようだが、30分経ってもまだそこにたどり着けた者はいなかった。 「ああー、また戻されたー…」  茶髪女子が半分笑いながら愚痴る。大輔も彼女に対して同情を多分に含んだ笑顔を見せる。 「マジかよ、運ないな」 「本当だよ。人生浮き沈みがあるって言っても、何度も何度も赤ちゃんに戻ったりしないでしょう。これ終われるのかな、私」 「あ、やばい。俺も戻んなきゃだ。サイコロ2つの出目分とかひでぇ」  かなりのクソゲーのようだ。 (もしかしたら店主は長く居座らせるために、あんなボドゲを置いているのか…)  もう一度ちらっと店主の方を見る。今度は表情を窺っても何も読み取れない。まあ、客が社会人ならともかく学生なので、長く居座らせても追加でオーダーするわけでもないだろうから、店主にとっては損なだけだが。  ゲームは続く。だんだんと俺の苛立ちは募る。いつまで経ってもゲームは終わらない。やかましさも終わらない。彼ら彼女らは他の客が俺1人しかいないことをいいことに徐々に声のボリュームを上げていった。学校の教室でガラの悪そうな奴らがたむろして騒いでいる姿を思い出す。そいつらともうほとんど変わらないぐらいに印象が悪くなった。  駒が何度も何度もゴールから遠ざけられることにすらうんざりした。何でそんなことにうんざりしているのか最初分からなかったが、どれだけ後ろに下げられても、ゴールを目指すことを強要される駒を見るのが嫌なのだと気付く。一番駒を後ろに下げられながら、相も変わらずへらへらと笑いながらプレイを続けている茶髪女子にも腹が立った。ライトノベルを読んで家に帰らずうずくまっているだけの自分と、理由もなく比べてしまう。バイタリティの差を感じた。いつしかページをめくる手は完全に止まっていた。  ダメだ、と俺は観念した。  立ち上がり、レジへと向かう。店主が俺の動きに気が付いて、レジの方へと移動する。いつもの通り250円を払い、店から出る前にちらりとプレイの状況を見る。あと少しで大輔の駒はゴールできそうで、茶髪女子の駒は何とまだスタート地点あたりに置かれていた。このゲームを作ったクリエイターはとんだサディスト野郎だ。  店の外はまだ明るい。いつしか雨は上がっていて、短い夜が始まる前特有の少し寂し気な夕空が広がっている。雨雲も過ぎ去ってしまったのか今はあまりない。何となく着信が来ていないか気になって、またスマホを見る。ニュースアプリが通知を送ってきていて、俺は気象庁が梅雨明けを発表したのを知る。地面を踏む足に少し力がこもる。本当ならその場で地団駄をしてやりたいぐらいだったが、天気に対してそこまでの怒りを覚えるのは流石に気が引けた。閉じた傘を持ちながら駅への道を歩く。  別に雨が降らねば、絶対に喫茶店に行ってはダメなわけじゃない。  あの人たちもずっと喫茶店に通い詰めるわけじゃない。  そんなことは分かっていて、それでもなお、俺は裏切られたような気分になっていた。  受験は失敗した。  母は鬱陶しくなった。  家では息がしづらい。  喫茶店に来られる回数は小遣いと天気の関係上減るかもしれない。  いや、行ったとしても、あの人たちがまた来るかもしれない。  手元に残っているのは自尊心が傷ついた自分自身だけ。  根拠不明の自尊心なんて持っている方が悪い、と言われるかもしれないが、勉強ができない、という結果を突き付けられるのは数か月が経った今でもやはり辛かった。 「要するに何もかも絶望というわけだ」  周りに人がいないことを確認してから自嘲する。バカげた一言だとは自分でも思う。飯も食えない難民の人たちに比べたら、部屋にお古とはいえ、エアコンがある俺がいかに優遇されているか。でもそうじゃない。そういう問題ではない。  和菓子屋さんの前を通り過ぎる時に甘い匂いが鼻をくすぐった。何か買って食べたいと思った。でも小遣いに余裕はない。もし再び、あの喫茶店に逃げ出したくなる時が来た場合に、使える金は大事に持っておく必要がある。昔何かの漫画で見た、札束を後生大事に抱きかかえている男の姿が脳裏をよぎって、ぼんやりとした惨めさに襲われた。空をもう一度見てみる。雨雲はない。代わりに星が出始めていた。そんなもん、一生見えなくてもいい。ずっと雨雲が空に広がっているといい。  ゆっくりと地下鉄の駅にたどり着き、改札をくぐって、下りのエスカレーターに乗る。左側に身を寄せていると、右側をどたどたと下っていく人が数名いた。俺も急いでいるときは偶にやってしまうので文句を言うつもりもない。だが、彼らにとって悲しいことに、下りきった先にあるホームには人がごった返していた。車内急病人の救護のため電車が遅れています、というアナウンスが耳に届き、おのずと口からため息がこぼれる。厄日としか言いようがない。  どこが列になっているのか分からないような有様だったので、とりあえず人の邪魔にならないようなところに移動しようとする。だが、それも無理だとすぐに気づいた。そもそも自由に動けないほど人がいる。どう動いたとしても、誰かに接触しそうだった。横に立っていた男性が少しよろけでもしたのか、俺の肩にぶつかってくる。男性はすまなさそうに首だけ動かして会釈をしてくる。適当に会釈を返す。どんどんホームに人は増えていく。  電車が数本到着しては人を吐き出していき、また収容していった。この駅に到着するまでにも複数の駅ではちきれんばかりに人を収容しているので、ホームから人がいなくなるペースはゆっくりだった。それでも20分もするとある程度落ち着いてきて、ようやく俺も乗車口に繋がる列を見つけて並ぶことができる。列を作っている全員の顔に疲労が見えた。きっと俺の顔もよれよれなのだろう。吐き気までしてきて、家に帰ったら、担任教師から渡された学習予実表を書き込む必要があることを不意に思い出して更にげんなりする。 (もう、明日でいいや…)  あっさりと俺は今日の課題を手放すことにする。何もかもが面倒くさい。身も心も疲れきっているのだったら、休むしかないじゃないか。もしかしたら、明日も明後日も1週間後も理由なく疲れているのかもしれない。でも、それもそれで仕方のないことなのだ。立ち向かう力がないのなら、取りこぼしていくしかない。  さらに5分ほど経ってからようやく電車に乗れる。乗る時にほぼ同時に乗り込んだ中年の男性が、ほんの小さくではあるがため息をついたのが聞こえる。満員電車に特有の陰鬱な空気も相まって、俺も再びため息をつく。しばらくはこの不快な時間が続くのだから、仕方のないことだった。
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