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小学生の頃、友だちと喧嘩をして泣きながら家へ帰ったことがあった。その日は朝から降る雨が下校時にも続いていて、私はわざと傘を差さずに家へ帰った。
出迎えた母はずぶ濡れの私を見て驚き、慌ててお風呂に入れてくれた。
洋服も帽子も靴もランドセルもなにもかもがベタベタで、心の底から雨を憎んでいた気がする。優雨という自分の名前に抗うように。
お風呂から出るとリビングからピアノの音が聞こえてきて、ああまたか、と思ってしまう。父の奏でるピアノだ。
髪の毛をタオルで拭きながらその音を仕方なく聞いていると、イライラとしていた気持ちがすぅーっと消えていく。思わず手を止めて父の後ろ姿を眺めていた。
美しい音色。心が穏やかになる。
やがて演奏を終えた父はそこでようやく私に気がついて、「どうした? 喧嘩でもしたのか?」と話してもいないのにまるで知っていたかのようにそんなことを言った。
「別に」
「泣いて、涙を雨でかき消そうとか、そんなことを思ったのか?」
「……そんなこと、ないよ」
図星だった。父には全てお見通し。
「雨を利用するなよ。雨はなにも悪くないだろ?」
予想もしなかったことで怒られてしまい、私はなにも言い返せなくなる。父の言葉はいつも変だ。
世界的なミュージシャンとして私が物心ついた頃から父は有名人だった。テレビやラジオでは父の作曲した音楽が流れ、雑誌や広告にも度々父の姿が写る。三人組のそのアーティストは誰もが知る有名なバンド。エレクトロな楽曲は海外の音楽家からも評価は高く、有名な日本人として父の名前を上げる人も多い。私はその一人娘として生まれた。
自宅にはピアノがあり、ギターがあり、ドラムがあった。母もアーティストとして活動していたため、家で即興ライブが始まるのは日常だった。それが普通だと思っていたし、音楽のない世界なんてありえないと思っていた。
将来は自分もミュージシャンとして歌を歌って、楽器を演奏するのが容易に想像できた。人前で演奏することの喜びは誰よりも知っているつもりだ。父や母のライブにはよく行っていて、ステージから楽しそうに曲を奏でる姿はいつも自宅で行うライブなんかよりも数倍楽しそうに思えた。
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