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マロウブルー
親友が結婚する。
小さい頃からの幼馴染、大輔とは物心がついたときからずっと一緒だった。学生時代も同じ学校で、いつでもどこでも一緒だった。お互い社会に出るとなかなか時間が合わなくて、それでも定期的に会っていた。
今日は久しぶりに「夕飯でもどう?」と連絡がきたところだった。なんだかいつにも増してソワソワして落ち着かないやつだな、なんて思っていたら
「俺、結婚することになったわ」
と満面の笑みで報告された。
俺は突然の報告に持っていた箸を落とした。
そんなベタなリアクションをしてしまうほど動揺した。
「え……結婚?」
俺は声が震えそうになるのを必死で堪えていた。
なんでも、先月職場の飲み会で知り合った子でお互い一目惚れしたらしい。照れながらも大輔は嬉しそうに話した。
「そっか……お、おめでとう」
「もう俺らも今年で三十になるじゃん。俺と洋一の付き合いって何年になるんだろな……ずっと一緒だったからさ、洋一に一番に話聞いてほしかったんだ。ありがとな」
酒がいい感じに回ったのか、顔を少し赤くしながらいつもより饒舌に話す大輔。幸せそうに話す大輔を見ながら、俺はちゃんと笑えているだろうか、ちゃんとおめでとうの気持ちをふるまえているだろうかと気持ちはぐちゃぐちゃなのに、頭の片隅ではやけに冷静な自分が働いていた。
それが数時間前のこと。
大輔とは、二軒目に行かないか?と誘われたが適当な言い訳をしてお開きにしてもらった。そのあと俺はどうやってここまで辿りついたのかが思い出せない。
ただ幸せそうな大輔の顔だけが何度も頭の中で浮かび、そんな幸せを心の底から喜べない自分への苛立ちが募る。この気持ちをどう扱っていいのか分からなかった。
早くに両親をなくした俺を大輔はずっと支えていてくれていた。そんな大輔のことが俺はずっと好きだった。だけど気持ちを告げる勇気もなく、親友というポジョンにいれるだけでいいと思っていた。大輔に彼女が出来る度に胸の中に生まれる痛みを見ないふりしてきた。
いつかこんな日がくることを覚悟はしていた。
だけど、そんな覚悟は現実の前ではなんにもならなかった。ただただ辛いという気持ちが押し寄せる。大輔の隣りに居れるのはどうしたって俺ではない。長年見ないふりをしてきた痛みのツケがやってきたようだった。
あてもなく歩いていると、雨が降りはじめた。初めはぽつぽつと降っていたのに次第に強まり、思わず近くの軒下に避難した。強まる雨に濡れたスーツが肌に張り付いて気持ち悪い。ザーザーと強い音を立てて降り続く雨を眺めながら、今なら声を出して泣いても誰にも聞こえない、気づかれないんじゃないかと考えた。だけどそんな気持ちとは裏腹に涙は一滴も流れなかった。そんな俺に降り続ける雨。まるで皮肉に思えてきた。
憂鬱に拍車がかかる雨。一向にやまない雨に、いっそのこともう濡れたまま帰ろうか、そんなことを考えはじめたとき、寄りかかっていたシャッターが突然開きはじめた。
「あれ?!すみません!まさか人がいるとは思わなくて。今日はもうお店は終わってまして…」
お店…?中を覗くとそこには彩りどりの花が並んでいた。どうやら花屋だったらしい。
「いえ、こちらこそすみません。ちょっと雨避けに居ただけだったので」
「ああ、そうだったんですね。確かに、ひどい雨ですね…止む気配も中々ないですし……あの、良かったら中に入ってください。僕も、雨が止むまでは少し待とうと思っているので」
自分よりもひと回りほど若そうな青年だった。だけど物腰や話し方が年齢の割には落ち着いていると思った。そして何よりその人懐っこい笑顔が印象的だった。
もう店が閉まっているというのにそんな迷惑はかけられない。いつもだったら遠慮するだろう。だけど身も心も冷え切った俺にはその店内の明るさ、彼の笑顔にすがりつきたくなってしまった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて…雨がやむまでお願いできますか…」
「ええ、大丈夫ですよ。遠慮なさらないでください」
彼のあとについて店内へと足を踏み入れた。「よければ適当に座っていてください。なにか拭くもの持ってきますね」
彼はそう言い残して店内の奥へと入っていった。
こじんまりとした店構えの割に、中は意外と広めにつくられていた。店内の少し奥には檜だろうか、大きな樹木を使ったような年季の入ったカウンターがあった。そのカウンターに触れると手になじむような感触があって木の温もりを感じた。その近くには小さな椅子が置いてあり、他に座れるものが見当たらなく俺はとりあえず腰かけた。
改めて辺りを見渡した。花屋なんてじっくり入ったことあっただろうか。こんなに美しい色に溢れた空間にいる自分がなんだか奇妙に思えた。さっきまでずぶ濡れで灰色で真っ暗な空を見つめていたのに…
なんだか座っていても気持ちが落ち着かず、彼が入っていったカウンターの奥へと向かった。
その奥へと進むと急にふわり、と香りがした。店内に入った時も様々な花の香りがしたがそれとはまた別の香りだった。香りがするほうへと更に進んでいくと、紫色の花たちがまるでカーテンのようにたくさん天井に吊り下げられていた。
「ラベンダーですよ」
「え?」
声のするほうへと目を向けるとその紫色のカーテンの間から大きめのタオルを手にした彼が現れた。
「よかったら使ってください」
「あ、ありがとうございます」
「ここは作業部屋で、今はちょうどラベンダーをドライフラワーにしてるところなんです」
「ラベンダー……ってこんなに良い香りでしたっけ…?」
花に詳しくない俺でもラベンダーぐらいは知っている。だけど俺の知っている香りとは違う気がした。
「これは北海道にある特別な農家さんからから仕入れたものなんです。中でも初夏の時期のラベンダーの香りは格別で…ラベンダーって少しキツく感じることも多いんですけど、これはそういうのが全然なくて。少しだけ甘く香るんですよね。僕もすごく気に入っているんです」
そう説明しながら彼は吊り下がっているラベンダーをそっと手に取とった。まるで大事な宝物かを扱うかのように。なんて優しい手つき、なんて優しい眼差しを花に向けるんだろう。俺はそんな花を愛でる彼の姿に目が離せなかった。
いつか、自分もあの花のように誰かから愛される日なんてくるのだろうか。この先、そんな、未来はあるのだろうか…
そんなことを考えてしまい、さっき別れたばかりの親友を思い出した。
すると、急に頬に冷たいものが流れた。
「え?!ど、どうかしたんですか?」
「え…?あ、あれ……」
彼に言われてその流れたものが涙であることに気づいた。なんで今になって。さっきまで一度も流れることがなかったのに…
「どこか具合でも悪いですか?」
「い、いえ、ごめんなさい…なんでもないんです…」
「でも……」
彼が困惑していた。当たり前だ。こんな見ず知らずの人が突然泣き出すなんて迷惑のなにものでもない。
「すみません…ほんとに…本当になんでもないんです。ただちょっと辛いことを思い出してしまって……」
自分で選択したことだった。大輔には気持ちを告げないと。だから当たり前なのだ。大輔の隣に自分がいないことは。だけど、どうしても辛かった。
溢れ出す涙を何度も何度も拭っていると、俺の手に重ねるように、そっと彼が触れてきた。びっくりして思わず顔をあげてしまった。
「そんなに目を擦ったら赤くなっちゃいますよ…」
何度も涙を拭っていた俺の手をとめてくれたのだ。
「泣きたいときは、我慢しなくても良いんじゃないかな…」
少し困ったような、でもどこか優しい目をした彼の顔があった。俺の手に触れる彼の手は大きかった。指先が荒れているのだろうか、少しカサついていて硬かった。だけどその指先は温かく彼の優しさが伝わってくるようだった。
彼のその手がゆっくりと俺の背中へと移ると、小さい子供をあやすかのように、ぽん、ぽんと小さくリズムを刻むように叩いた。
「子供の頃、よく母がしてくれたんです。不安な時、悲しい時に。おまじないみたいに。大丈夫、大丈夫って」
彼の優しくて低い声に強張っていた体がゆるむ。ぽん、ぽんとひとつひとつ彼がそのリズムを叩くたびに、ぎゅっと固まっていた気持ちもひとつひとつ解れていくようだった。
俺はひたすら泣いた。声をあげて、なにもかも吐き出すかのように泣き続けた。こんな風に人前で泣いたのは初めてだった。彼は俺が落ちつくまでただ黙ってぽん、ぽんと心地の良いリズムを刻み続けた。
「少し…落ちつきましたか…?」
「はい……」
どれぐらい泣いていただろうか。
だんだんと気持ちが落ち着くと、俺はとんでもないことをしてしまったのではないかと急に恥ずかしくなってきた。
「ちょっと待っててくださいね」
そう言い残すと彼は再びラベンダーのカーテンの中へと戻った。
ずっと顔をあげられるずにいた俺は、どういう顔をすれば良いのか…ひとりそんなことを考えていた。
しばらくして彼が戻ってくると
「これ、よかったらどうぞ」
と、カップを俺に差し出した。
「実はうちハーブティーも売ってるんです」
その透明のカップの中身は透き通った青色をしていた。
「青いお茶…?」
初めて見るものに思わず口をついた。
「ちょっと見ててくださいね」
そう言われてその青色をしばらく見ていると今度は薄い紫色に変化した。
「あ、また色が」
「そうなんです。これは温度に反応して色が変わるんですよ。で、最後にこれを…」
彼は手にしていたレモン果汁を三滴ほど薄紫色の中に垂らした。するとその垂らした先からグラデーションしていくようにだんだんと薄い桃色になり、そして最後には鮮やかなピンクへと変化した。
「マロウブルーっていって、温度やレモンの酸に反応して色が変わるんです。夜明けのハーブとも言われているんですよ。青い色から鮮やかなピンクに変わるところが次第に明るんでいく空のようで…名前も素敵ですよね」
カップを少し上に掲げてみた。
あぁ、本当だ。まるで空だ。時間と共に移りかわっていく空の色、グラデーションしていくあの景色がまるでそこにあるかのようだった。
「すごい…こんな鮮やかな色に…まるで魔法みたいだ…」
自然と口元が緩んだ。
「…よかった。笑ってくれた」
隣にいた彼が嬉しそうに目をほそめながら言った。その笑顔があまりにも優しくて、俺はまた涙がこぼれそうになって咄嗟に俯いた。
手の中のカップへと再び視線を移した。
夜明けの様子になぞられたハーブティー。
だけど俺には梅雨の夕暮れのように思えたのだ。貴重な梅雨の晴れ間、青い空から薄いピンクへと変わっていく夕暮れの空。じめじめとした梅雨は苦手だけどあの空を見るとなんとなくいつもほっとした。今この瞬間に感じている気持ちを彼に伝えたいと思った。でも、なんて言葉にしたらいいのか分からなかった。
俺も彼も、目の前に広がる小さな空を見ていた。俺はまるで彼の優しく温かな気持ちが広がっているようだと思った。そしてその空に向けて「ありがとう」と言った。今の俺にできる精一杯の言葉だった。彼のほうをちらりと見ると、彼も同じ空を見つめながら満足そうに「はい」と返事をした。
ただただその空をお互い見つめていた。
だけど、なんとなく、気持ちが通じたような気がした。
その後、二人してそのハーブティーを飲みながら雨が止むのを待ち続けた。
そのハーブティーのおかげなのか、それとも彼の優しさからなのか、俺の心はすっかり温まっていた。
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